ゾンヌルダークを陥とした反乱軍は、戦勝の宴もそこそこにシャローム地方へ進撃した。
斥候部隊の次に出発したのはミカエラだった。シャロームの辺境の後事はメリアス老やヴィラーズたちに任せてあり、彼らは追って参戦する。
ミカエラはランスロット、ウォーレン、そしてグリフォンのティシフォネーだけを連れて、上空からシャローム地方を縦断した。型破りにも見える指導者の単独行動にも理由があった。
「あそこね!」
風に負けないように、ミカエラは大声で叫んだ。
ミカエラの視界を遮らないようにランスロットは前屈みになる。
最もグリフォンの扱いに長けているのはミカエラなので、必然的に彼女が手綱を握ることになる。
――まったく、情けない格好だ。
ランスロットは溜息をつく。
女性にもたれかかるような姿勢は騎士としてのランスロットの矜持を傷つけた。とはいえ、ミカエラの腰に両手を回してしがみついているウォーレンよりは幾分かましである。
この地を治めるギルバルド・オブライエンは、旧ゼノビア王国で魔獣軍団長を務めた男である。また、民衆を気遣う立派な領主で、シャロームの民に慕われていた。
しかしギルバルドはゼノビア王グランが帝国に殺されると帝国側に寝返った。以来彼は『帝国の犬』という蔑称で呼ばれている。
ギルバルドを知るウォーレンやランスロットは、何かの理由があるのではないかと考えていた。ギルバルドは誇り高い男で、少なくとも己の保身のために敵方に寝返るような男ではなかったからだ。
実際に斥候隊からも同じような情報が寄せられている。
帝国に寝返ってからのギルバルドは厳しかったが、租税の率などはほとんど変化していない。他の地方と比べても最も安価だ。施療所や学校などの福祉には金を惜しまない。民衆はギルバルドを『帝国の犬』と誹りながらも、今なお慕っている。
人手不足の反乱軍にとって、ギルバルドと、彼の親友であり旧ゼノビア王国魔獣軍団の副団長を務めた『風使い』カノープスは得難い人材である。またギルバルドが反乱軍に降れば、労せずして肥沃な穀倉地帯であるシャロームを手にすることも出来る。
ギルバルドを説得するためには、カノープスの協力が不可欠かと思われた。しかしカノープスは24年前、ギルバルドが帝国に寝返ってから袂を分かっている。
まずはカノープスを説得しなければならない。その鍵となる人物が眼下の教会にいる。
ギルバルドの恋人、そしてカノープスの妹であるユーリア・ウォルフである。
「お待ちしておりました、ミカエラ様」
ユーリアは優雅な仕草で頭を下げた。
部屋の入口に控えていた斥候が、音もなく動いて退出する。
ランスロットは見事なまでのニンジャの動きに驚嘆する。彼がユーリアとの会談を設けた反乱軍の斥候だ。反乱軍の中から見込みのある人物を選んでミカエラが教育していたようだが、短期間でここまでの腕前に育て上げているとは思わなかった。
「あなたが歌姫ユーリアね」
「はい」
ユーリアの背中には朱色の翼がある。有翼人の上位種、バルタンの証である。
流れるような白銀色の髪に、飛行の邪魔にならないように布地の少ない純白の衣装を纏ったユーリアは、教会の壁画に描かれた天使のように清楚な美貌の持ち主だった。
だが惜しい事に、その美貌は哀しみで翳っている。
「どうかギルバルド様と兄をお救い下さい」
ユーリアの目からはらはらと涙がこぼれる。
「ギルバルド様と兄カノープスは幼き頃からの親友同士でした。ところが帝国がやって来たとき最後まで戦おうとする兄と、民のために戦いをやめようとするギルバルド様の間で対立が起き、それ以来二人は仲違いしたままなのです」
ランスロットが強く拳を握った。
ミカエラは視界に端に映ったそれを見て、実直なこの騎士の事だから、きっとやりきれない気持ちになっているのだろうと思う。
「今のみなさまなら、ギルバルド様を打ち破るのは簡単なことでしょう。むしろギルバルド様はそれを望んでおられます。ギルバルド様は誇り高き戦士。民のためとはいえ、信念を曲げてまでも帝国に従わねばならなかったご自分を許せないのです。兄もそれを分かっているはず。なのに戦士としての誇りがギルバルド様を許せない……。お願いです。どうか、二人をお救い下さい」
ユーリアは床に両膝を着いて泣き崩れた。
ミカエラはユーリアの目線に合わせてしゃがみ込む。
「いいわ。私はそのためにここに来たのだから」
「ありがとうございます。それでは『火食い鳥の羽』をお渡しします。これは亡きグラン王が二人に渡されたもの。これを兄に見せればかつての日々を思い出すかも知れません。兄にきっかけを……。ギルバルド様をお助けする機会をお与え下さい」
「ええ。でもあなたも来るのよ」
「え?」
ユーリアは涙で潤んだままの瞳を大きく開いた。
「あなたも来るの。私と一緒に来て、カノープスとギルバルドがどうなるのか自分の目で見て確かめなさい」
「でも、わたしは……」
「恐いの?」
ユーリアは瞳を伏せた。
この方のおっしゃるとおりかもしれない。
兄の性格もギルバルドの性格もユーリアは良く知っている。二人とも誇り高い戦士。己が正しいと思った意見を曲げはしないだろう。事実二人は24年間顔を合わせることなく、未だに袂を分かったまま。
そんな二人の間にいるのは辛かった。何度説得に赴いても、二人はユーリアの言葉に耳を貸さなかった。
兄を説得すれば「ギルバルドが裏切った」と言われ、ギルバルドを説得すれば「もはや何も言う言葉はない」とはね除けられた。
「わたしは……」
二人とも正しい。誰も間違っていない。わたしはどうすればいいのか。
説得を繰り返し、悩み続け、ユーリアはもう疲れ果ててしまった。いっそ故郷に帰ろうと思ったこともある。だがユーリアは愛するギルバルドの側を、かけがえのない兄の側を離れることはできなかった。せめてギルバルドの住まうペシャワールにほど近いこの教会で、二人を見守れれば、と。
「わたしは……恐い。わたしの言葉は兄にもギルバルド様にも届きませんでした。24年間、兄もギルバルド様もわたしの言葉に耳を貸してくれませんでした。わたしの言葉はまだ届くでしょうか? また、二人に拒絶されたりはしないでしょうか? ギルバルド様はまだ……」
わたしを愛していてくださっているでしょうか?
ユーリアが飲み込んだ言葉がミカエラには分かった。
ミカエラはユーリアを抱きしめた。
「辛かったわね……」
ユーリアの瞳から再び涙が溢れる。
辛かった。とても辛かった。
誰かにそう言ってもらいたかった。
「さあ、行きましょう。あなたの歌を聴いてみたいわ。私も歌は好きなの。いろんな歌を教えて」
「はい」
ユーリアは涙を指で拭いながら立ち上がった。
憂いを含んでいた瞳に光りが射す。
「そうよ、もっと笑って。あなたに悲しい顔は似合わないわ」
微笑んだユーリアは透明な美しさに溢れていた。長い冬を越えた種が芽吹くような表情の変化に、ウォーレンとランスロットも一瞬見とれる。
「そうだユーリア。あなたのお兄さんの事を教えてくれる? どうも頑固者っぽいから、一緒に作戦を考えましょう」
「はい!」
「それからランスロット、ウォーレン。有翼人の飛行は美しいわよ。二人とも、一生懸命私にしがみついてないでしっかり見てなさいね」
ミカエラの皮肉にユーリアがくすくすと笑った。
またグリフォンで移動するのかと内心うんざりしていた二人は、痛いところをつかれて苦笑した。
ユーリアの案内で一行はバハーワルプルを訪れた。
下町からはずれた場所に粗末な小屋がある。これがカノープスの住まいである。グリフォンから降りた一行は小屋に向かったものの、周囲に積まれた空の酒瓶や酒樽が発する臭気に眉をひそめる。
「酒好きみたいね」
ミカエラだけは得も言われぬ臭気にひるむこともなく、樽を蹴散らしながら進む。
ならず者や傭兵達が集う街の一角で育ったミカエラにとって、酒がさらに発酵したようなこの臭気は幼い頃から慣れ親しんだものだ。
「ユーリアは外で待ってて。あなたのお兄さんが何を考えているのか、そこでしっかり聞いた方がいい」
言ってノックもなしに扉を開ける。
ランスロットは不承不承、ウォーレンはローブの裾が汚れないようにつまみながらミカエラに続く。
「誰だ!」
野太い男の声が薄暗い部屋の奥から響く。
「風使いカノープスか?」
「……だったらどうした」
「私はミカエラ。反乱軍の指導者だ」
「お前が噂の野蛮人どもの頭か……」
カノープスはのそりと立ち上がった。
燃えるような赤毛はミカエラといい勝負だ。背中にはユーリアのそれより二回り以上も大きな深い茜色の翼がある。体格もがっちりしていて、ランスロットよりも背が高い。半裸なせいもあって鍛え上げられた上半身が露わになっている。妹とは随分対照的な男だった。
「隠遁生活をしているわりに、随分と耳が早いようだな」
ミカエラは薄く笑った。
どうやら彼は完全に世を捨てたわけではなさそうだ。
「……何をしに来た」
「あなたを迎えに」
ミカエラは右腕を差し出した。
カノープスは目を丸くした後、腹を抱えて笑った。
「俺を迎えに? お前たちに何の義理があるってんだ」
「言い方を変えよう。私達はペシャワールを攻める。それが何を意味するのか、あなたは分かるはずだ。ギルバルドの親友、風使いカノープス」
カノープスの顔から笑みが消えて、ミカエラを見る目が猛禽のような鋭い眼差しに変わる。
「それなら、聞こう。お前達は何のために戦っているんだ。正義のためか?」
「もちろんだ」
突然のカノープスの問いかけにランスロットが答えた。
カノープスの唇が意地悪くつり上がる。
「正義だと? 血を求める野蛮な奴らのどこに正義があるというのだ。正義を語る者はただのガキだ。おまえたち反乱軍はガキの集団だよ。遠い昔、燃える水をめぐって争いがあったという……。正義はどちらにあったと思う?勝った側にだ!つまり、力こそ正義なのだ。弱者に正義はない」
カノープスの言葉にランスロットはかっとなる。
「弱者にも正義はある! 正義を語るものがただの子供だというなら、何故有史以前から正義の御旗を掲げた英雄が王と成り得たのだ! 我ら騎士が掲げるも正義と大義! 正義なくして如何に民の自由を守り得ようか!」
「それならおまえたちの自由とはなんだ? 階級なき社会のことなのか? 誰もが差別なく生活できる社会なんぞ存在せん。それは理想だ。他人より楽になりたいと思うからこそ人は生きることができるのだ。階級は必要悪だ! 階級があるから人は幸せな生活を、明るい未来を望むのだよ」
「カノープスよ、あなたは本当にそう思っているのですか?」
哄笑を続けるカノープスと怒りで紅潮したランスロットの間に、静かにウォーレンが割って入った。
カノープスは老人の顔を無遠慮に眺めると、目を見開く。
「お前……ウォーレンか!」
「お久しぶりです」
ウォーレンの目の前の有翼人は24年経ったいまでもほとんど年を取っていない。有翼人種は人間の3倍の寿命があり、人よりも遙かに老化が遅い。ユーリアも見た目は十代後半の娘に見える。
カノープスの変わらない姿に、ウォーレンは昔の記憶を刺激される。
「ゼノビアにあった頃、あなたはギルバルド殿と共に名誉と誇りを尊んだ素晴らしい戦士ではありませんでしたか。それがなぜです?」
「……名誉、か」
カノープスは視線を落とした。
「ウォーレン、お前も名誉を求めるのか? 名誉とは何だ? 俺の友は名誉をかなぐり捨ててまでも民のために尽くそうとしている。己の誇りを捨ててまで人々の命を救おうと帝国に仕えているんだ。わかるか? 帝国の犬と呼ばれながらも帝国に従わなければならない気持ちを……。それでもお前達は名誉を求めようと言うのか?」
ミカエラは息を吐く。
この言葉を言わせたかった。
「あなた、ギルバルドの気持ちを理解しているのね」
「指導者殿か。お前が求めるものはなんだ? 正義か、自由か、名誉か? 何のために反乱を起こした?」
問われてミカエラはしばし考える。
カノープスが上げた3つの物のために戦ったことなどなかった。戦うのは、自分のため。あえて何かのために戦うと言うならば、それは家族や仲間のためであって、万人を救う大義などのためではなかった。
そもそも万人が納得する戦いの大義などあり得ない。兵士達をまとめるために理想論を語ったりすることもあるが、本来ミカエラはそのような絵空事が反吐を吐くくらいに嫌いだった。
大義や正義は空腹を満たしてくれない。生きてゆく上で重要な要素だとは思うが、それらに踊らされて痛い目を見るのは御免だった。現実を直視せずに理想を振りかざすのは、愚か者のすることだ。詩人の伝承詩にでも任せておけばいい。
現実認識と合理性、心理の分析と扇動、そして経験から生み出された智恵と実行力。人は冷徹と言うかも知れないが、それこそが、今まで生きてきてミカエラが出した答えだった。
しかし今、この事実を答えてしまったら、妙に口達者なこの有翼人に何を言われるか分からない。
「……どれでもない」
「はははは! ウォーレン、傑作だな! 何も考えていないのならおまえたちは血に飢えた獣だ! おまえたちと話すことはなにもない」
カノープスの切り返しにミカエラはあっけにとられた。
詰まるところ、カノープスはどの答えを返しても全て否定してかかるつもりでいたではないか。人の事を言えた義理ではないが、小馬鹿にしたような態度にミカエラは怒りを感じる。
「では正義も名誉も自由も、人として生きる上で必要な心をあなたは全て否定するのか」
「……どこかへ行ってくれ。もう俺はすでに戦いをやめた人間だ」
ぶちり、と何かが切れる音が頭の中で響いた。
ミカエラは右拳を握りしめると、カノープスの頬に容赦のない拳を見舞っていた。
油断していたカノープスは体重の乗った一撃をまともに喰らい、酒樽の山の中に倒れ込む。
「ミカエラ!」
もう一発加えようとするミカエラを、ランスロットが慌てて押さえた。
「あー……悪い悪い。こういう口先ばっかの情けない男見てるとついつい殴り飛ばしたくなるのよねー」
謝っているが悪びれた様子はこれっぽちもない。
「さっきから黙って聞いてやってりゃくだらない屁理屈ばっかりべらべらべらべら……お前なぁ、私らに文句言うけど、それじゃあ自分はどうなんだよ? 真っ昼間から酒飲んでくだまいて言いがかりつけてさ。昔は偉かったみたいだけど、今はただのチンピラじゃねーか。せいぜい過去の栄光にすがって偉そうに一席ぶってな!」
ミカエラの口汚い罵りにランスロットは心底落ち込んだ。
この口調も、大の男を拳で殴り飛ばすのも女性らしい行為とはとても言えない。
叱責したいが今の状態では火に油を注ぐだけだ。以前「怒らせなきゃいい子でいるわ」と宣言したとおり、カノープスのように完膚無きまでに殴られるだろう。
ミカエラが長剣を使うようになってから手合わせでは3本に1本は取れるようになったが、素手での格闘となると手も足も出ないのが実状である。
「てめえ!」
唇の端の血を拭いながらカノープスが立ち上がった。
咄嗟にランスロットはミカエラの手を離した。
怒り心頭に達して殴りかかったカノープスの拳を、ミカエラは事も無げに華麗な足裁きでかわした。間髪おかず斜め横に回り込むと、下段蹴りを繰り出す。
したたかにすねを蹴られてカノープスはもんどり打った。
「なんだ。風使いって聞いてたからどんなに強いのかと思ったのに、こんなもんか。この分じゃギルバルドってヤツもたかが知れてるな」
「てめえ! ギルを馬鹿にすんな!」
「聞こえねーなぁ。負け犬の遠吠えなんかよ」
唾を吐きそうな勢いで言うと、ミカエラは乱れた髪を直しながら扉に向かった。そこにはユーリアがいる。
「行くよ、ユーリア。あなたには悪いけど、あなたの兄さんはどーしようもないただの飲んだくれみたいだ」
「ユーリア?」
「兄さん……」
ユーリアが恐る恐る顔を出す。
「ラワピンジへ戻ろう。時間の無駄だ」
それ以上ミカエラは何も言わず、ユーリアの腕を掴むとカノープス宅を後にした。
飛び去るグリフォンと妹の姿をカノープスは呆然と眺めた。
「ラワピンジだって……?」
ラワピンジにはエリンやカードックなどの足の速い部隊がすでに集結しており、シャローム攻略の拠点としている。そのうち最も堅牢な建物がミカエラたちに割り当てられていた。
日が暮れるとミカエラは部屋着のまま屋上に向かった。酒を飲み、ユーリアに教えてもらった歌を口ずさみながら、月を見上げる。
静寂に包まれた街の上空に雄々しいはばたきが響いた。
ミカエラは立ち上がり、翼を持つ影に向かって手を振った。影は旋回した後、ゆっくりとミカエラ目がけて下降する。
「来ると思ってたわ」
「何だと?」
「まあ飲みなさいよ」
ミカエラが酒瓶を渡すと、カノープスはひったくるようにして受け取った。
「大きな翼ね。こんな立派な翼、初めて見たわ」
ミカエラはそっとカノープスの翼に触れる。
断りもなしに触るな、とカノープスは言いそうになったのだが飲み込んだ。普通ならばふいに触れられると不快極まりないのだが、何故かミカエラに触れられるのが別段嫌でもなかったのだ。
「これはあんたに返した方が良さそうね」
ミカエラは胸元から火食い鳥の羽を取り出すと、唇に当てた。
「それは!」
「ユーリアから預かったのよ」
「じゃあ全部知ってて……」
ミカエラは微笑みながらうなずいた。
「ええ。全部聞いてたの。でもあんたの口から直接聞きたかった。ユーリアにも聞かせてあげたかった。バハーワルプルからの帰り道、ユーリアは泣いてたわ。兄さんはギルバルド様を嫌いになったんじゃなかったんだって」
「嫌いになるはずないだろ。あいつは俺の親友だ」
「そうよね」
この女の手の内で踊らされていたのだと知り、カノープスは羞恥で赤くなった。
まんまと本音を吐かされてしまった訳だ。
「あんたの気持ちもギルバルドの気持ちも分かるわ。どっちも間違ってない。どちらかが間違っていれば仲直りすることもできたでしょうね。だけどどっちも正しいから妥協できなかった、そうでしょう? だから、余計に悲しい」
ミカエラは火食い鳥の羽をカノープスの髪に挿した。
「ねえ、意地張ってないで素直になりなさいよ。気が付いたとき大切なものを無くしてるなんて辛すぎるわよ」
「あんた昼間とずいぶん違うな」
照れ隠しにカノープスは話題を逸らした。
「そう? だとしたら今が夜で、酔ってるからでしょうね」
ミカエラはふふ、と酔っ払い独特の弛んだ顔で笑う。
それに釣られてカノープスも笑おうとしたが、殴られた傷が痛み顔をしかめた。
「殴ってごめん。つい頭にきちゃって。すぐに手が出る癖は直した方が良さそうね」
「全くだ。ついでに口が悪いのも直せよ。きつかったぞ、あれは」
「それは無理。私の個性だもの」
ミカエラはカノープスの頬に手を当てた。
「下の階に僧侶がいるわ。治してもらおう」
何故この女に触れられるのが不快ではないのだろう。
奸計にはめられてやって来てしまったというのに、それでも腹が立たない。
悔しくなったカノープスは、せめてミカエラを動揺させてやろうと抱き上げた。
「何するのよ!?」
「いくら俺がバルタンでも、いきなり屋上から訪問ってのは失礼だろ」
翼を広げ、屋上の端に立つ。
「ちょっと! 待ちなさいってば!」
ミカエラの制止を無視してカノープスは宙に身を投げた。
きゃあ、という女らしい悲鳴が上がり、カノープスは大声で笑った。
「情報によると、ギルバルドはこの地を良く治めているようだな。税も他の地方に比べると随分低い。教会や診療所も充実している。学校にも多額の寄付を行っているようだ。領民に不満はなく、慕われている。腐っているのは帝国から派遣された官吏だけ。……となると、どうだ、ウォーレン」
「無理に戦う必要はございませんね」
「その通りだ。領民がギルバルドに対して抱いている唯一の不満は、彼がゼノビアを裏切り帝国に寝返ったという事実。それさえ取り除いてやればいい。ギルバルドは貴重な人材だ。みすみす逃したくない」
ミカエラはちらりとカノープスの様子を伺った。
カノープスは腕を組み目を閉じて軍議を静聴している。
「しかし、ミカエラ様」
ファーガスが挙手した。
「一度は帝国に寝返った人間を軍に引き入れる旨に反対する声もありますが……」
「ふむ。いい意見だな。ファーガスの言うとおり、ギルバルドが寝返ったのは事実だ。しかしその後、ギルバルドは帝国の威を振りかざし圧政を強いたりしただろうか? いや、彼はそうしなかった。正しい行いで民に平穏な生活を与えた。これも事実だ。私は人の行いは動機ではなく、いや、動機も重要な要素なのだが、結果で決めるべきだと考えている。みなはどうだろうか?」
場がどよめいた。
ミカエラがウォーレンとランスロットを見やると、彼らは苦笑していた。
動機を否定されては反乱軍決起の正当性が損なわれるのだが、ミカエラの言う事にも一理ある。それを理解した上での苦笑だった。
「帝国に属していたという理由で人の正しい志や行いを否定すれば、心ある人々の理解と賛同は得られないだろう。帝国は敵だが、その中にも帝国の現状を憂いている人物もいるはずだ」
その言葉に、数人がはっと顔を上げる。
ミカエラは穏やかな笑みを浮かべて続けた。
「仮にギルバルドを『過去に帝国に寝返った』という理由で許さなかったとしたら、密かに我が軍に賛同していた帝国の人々を切り捨てる事になるだろう。それでは帝国と変わらない。我らは狭量だと罵られるだろう。私は帝国と同じ轍を踏みたくはない。ギルバルドを我らの元に招き、同志として共に戦う事ができたのなら、それは我が軍の利益になる。目先に捕らわれず、広く物事を見よう。私達の戦いはこれからも続くのだから」
これには全員が頷いた。ミカエラは満足げに頷く。
ミカエラはゼテギネア出身ではないため、彼らの拘りが実感できない。
そして拘りがないからこそ、客観的に状況を把握して戦略を練ることができるのだ。
これは諸刃の剣だとミカエラは思っている。客観視し過ぎて強引に物事を推し進めたら、結果的に仲間の信頼を損ねるだろう。意見を通したいのなら、きっちりと理論立てて会話をしなければならない。
皆が賛同したのを確認して、ミカエラは顔を引き締めた。
「ギルバルドが何故帝国に寝返ったのか、カノープスが何故ギルバルドと袂を分かったのか、真相を流布するよう潜入工作部隊を派遣しよう。大々的にではなく、噂という形で広めるのだ。知れ渡ったら我が軍の解放部隊を派遣し、噂は真実だと告げる。元々真実なのだから説得力もある。この地の人々は心中では反帝国派だ。彼らの血を流したくない。無血開城と蜂起を促し、ゼノビア制圧までの拠点にしたい」
「な!」
カノープスの驚愕の声に、一同の注目が集まった。
ミカエラは注目が自分からはずれたのをいいことに、にやりと腹黒そうな笑みをカノープスに向けた。
カノープスはふいっと顔を背ける。
情報操作は民衆を扇動する基本なのだが、個人的な過去や心理を大勢に流布されるのは気分の良いものではない。
不満たらたらだったが、カノープスは口にしなかった。不満をこぼしたところで一つ言えば十返される。殴り負けたこともあり、カノープスはミカエラに関しては全くのお手上げ状態である。
――いつか土下座で参りましたと言わせてやる。
そんな情けない決意を固めるカノープスだった。
「それから、帝国兵の中にも帝国のやり方に対する疑念を持つ者、民衆に慕われている者もいるだろう。各潜入部隊はそれも考慮して動いてくれ。後の事は追って連絡する。では、解散」
エリンたち部隊長が部屋を出たのを確認すると、カノープスはおもむろに切り出した。
黙っていたのは、昨夜ミカエラから指導者の仮面をはずすのはごく一部の人物の前だけだと聞いていたせいである。
「お前、腹黒い女だな」
カノープスは精一杯の皮肉を言った。
「策略家と言って欲しいわ」
「けっ」
ミカエラはくすくす笑った。
この有翼人は子供っぽいところがある。カノープスの実年令は45才なのでランスロットよりも年上で、ミカエラから見たら倍以上年上である。少しは落ち着いていても良さそうなものだが、精神的には外見年令の20代半ばとほぼ変わらない。それどころかまるで少年のような面も多々ある。
「お前、さっき無血開城って言ってたけど、ほんとにそうなると思ってんのか?」
「あり得ないわね」
「そうなのか!?」
ランスロットが口を挟む。ウォーレンはすでにこれからミカエラが展開するであろう作戦が見えているので平静だ。
「カノープスやユーリアに聞いたギルバルドの性格を考えると、彼は徹底抗戦しそうね。本当に無血開城ができればそれが一番いいんだけど」
「ギルは迎撃するぞ」
「そうね。でも街を戦場にしたくないの。ペシャワール北の平原での戦闘に止められるならそれに超したことはないわ。あとは帝国兵をうまく懐柔できる人材がいれば、もっと犠牲が減るんだけどね。できれば帝国側の人間で、なおかつシャロームの人たちに慕われてる人がいいわ。そういう人が説得しないと、帝国兵たちも本国の粛正を恐れて投降しないだろうから。カノープス、心当たりはない?」
「残念だけど、ない」
「そっか。まあ、あんたは今でもゼノビア側だと思われてるだろうし、豪快にヤケ酒かっ食らってふてくされてるから接触がなくても仕方がないよね」
「さりげなく嫌味を言うな」
「ほんとのことでしょう?」
「ほんとのことでもだ!」
カノープスはミカエラの頭を掴んでぎりぎり締め付けた。
「痛いって! 手が大きいのは分かったから!」
「仲がよろしいですな」
「仲良く見えるのかよ、じいさん!」
「さて、ミカエラ」
「無視すんなって! そういう性格だったのかよウォーレン!」
カノープスの抗議も嫌味も受け流して、ミカエラとウォーレンはより細かい話し合いを始めた。
カノープスはランスロットを見やる。
「お前さ、あんな意地の悪い女に傅いてて不満はねーのかよ」
「彼女は我々の指導者だからな」
「指導者ならどんな性格でもかまわねーのかよ」
「そうではない」
「じゃあ何だよ」
ランスロットの沈黙に気を良くして、カノープスはふふんと鼻で笑う。
「答えられねーのに傅いてんのか?」
「君はどうなんだ」
「……俺?」
ランスロットは、自分より背が高いバルタンに負けないように胸を張った。
「私に問うくらいなのだから、君には確固たる根拠があるのだろう? 参考までに聞かせて欲しい」
「んだよその高飛車な態度はよ!」
「私は事実と希望を述べているだけだ」
「屁理屈垂れてんじゃねーよ」
「君もバハーワルプルで随分な屁理屈を言ってくれたじゃないか」
「あれはなー!」
「うるっさい! いい年こいて何やってんのよ。あんたらが主役の話をしてるんだから、くだらない痴話喧嘩してないでちゃんと聞きなさい!」
「いい年って……」
「痴話喧嘩、とは……」
37才と45才の男達は顔を見合わせた。
「ランス、カノープスに乗せられて同じ次元に落ちないでよ。子供は一人でたくさんだわ」
「お前! 俺がガキだって言うのかよ!」
「あんたも! 大人だって言い張りたいんだったら、いちいちランスを構わない! ランスはどうしようもない石頭のクソ真面目なんだから、構うだけ時間の無駄よ」
「また汚い言葉を……」
二人はしぶしぶ席に着いた。
「二人ともいい子ね。さて、それじゃ本題に入るわよ」
ウォーレンはやれやれと言いたげに髭を撫でた。
ミカエラは地上に広がる戦場を眺めた。
ペシャワール周辺で大規模な戦闘が展開されている。
反乱軍側も帝国軍側も全戦力を投入しているために土煙が上がっているが、その土煙の立ち具合で戦況が伺える。
帝国兵は数こそ多いものの志気が低い。統制が取れておらず、部隊に一貫した動きがない。
これに対して反乱軍側はランスロットが総指揮を取り、ヴィラーズ、ファーガスが補佐している。各隊の部隊長も作戦に従い迅速に行動している。
「ランスはうまくやってるみたいね」
「初陣にしては上等だな」
ミカエラの言葉にカノープスが応えた。
「初陣じゃないわよ。先のゾンヌルダークは空からの奇襲だから除外するとしても、ランス達はシャロームの辺境で何度か反攻運動を起こしてたらしいわ。あんたはシャロームにいたんだから、たぶん知ってるでしょ?」
「知ってるけどな。でも反抗運動、だろ。その度にあっけなく掃討された。今回のとは違うさ」
「まあ、ね」
「お前、よく野戦経験のない奴に指揮を任せたな」
「この戦は事前戦略の時点で勝ちが決まってる。経験値を積ませるという意味では、よい戦だからね」
降伏勧告から始まった戦は、初めから反乱軍優勢だった。
『帝国の犬』ギルバルドが自分たちのために苦渋の選択をしたのだという噂が広まると、瞬く間に各都市の反帝国の声は大きくなった。反乱軍は街の人々に歓呼の声で迎えられたのである。また、帝国兵のほとんどはシャロームから強制的に徴兵されており、息子や夫を救って欲しいとの嘆願も多く寄せられた。
「ギルバルドがシャロームをちゃんと治めてくれていたおかげね」
「ギルが負けるってのは悔しいけどな。ま、でも、そういうこった」
親友を褒められたのが嬉しいのだろう。てらいのない満面の笑顔を見せる。
純粋な気性のカノープスが可愛らしくて、ミカエラは笑みを漏らした。
そんな二人の様子とは正反対に、ウォーレンは不安を隠しきれなかった。
各都市に蜂起を呼びかけた時、帝国側の官吏や部隊長の数人が反乱軍への参戦とミカエラへの忠誠を誓った。彼らはシャロームの民からも慕われている者たちだった。
降伏を装いながら企みを秘めていた者や、私利私欲のために不正を行っていた者はミカエラ子飼いの密偵達に『消された』。
元帝国兵の降伏勧告が帝国兵に与えた動揺は計り知れなかった。数に劣る反乱軍が勝利を収めつつあるのはその影響が大きい。
それだけではなく、エリンを中心とした僧侶部隊は敵味方問わず回復魔法をかけて慈愛を振りまき、カードック率いる魔獣部隊はヘルハウンドやワイアームの機動力を生かして戦意をなくした者の側に駆けつけ離脱を助けるなど、帝国兵への心理的なゆさぶりをかけ続けている。
彼女の作戦立案能力は卓越したものがある。
民衆の心理を読むこと為政者の素質も抜群だ。
密偵などの『夜の住人』の扱いにも長けているし、政治の暗部を自ら行うのもいとわない。
比類なき魅力と美貌の持ち主で、戦士としての能力も他の追随を許さない。
兵士達は彼女に全幅の信頼を置き、崇拝の眼差しを向ける。
ミカエラは確かに得難い人材なのだ。しかし彼女は運命の星。王の星が立つときに彼女のその人望が邪魔になりはしないだろうか? 移ろいゆくこの星を一所に止められれば良いのだが、ウォーレンの占星術に彼女は留まらないとはっきり見えている。
「おっとあぶねえ」
カノープスは地上から飛んできた矢をかわした。
「ウォーレン、怪我しなかった?」
ミカエラがカノープスの肩越しに言った。
カノープスの両腕に抱かれ、落ちないように首に両手を回しているのでウォーレンに話しかけるにはどうしても肩越しになってしまう。
「大丈夫です」
心配そうなミカエラを気遣って、ウォーレンは無理に笑った。
とはいえ、カノープスの腰にくくりつけられた革の紐を両脇の下に通してぶら下がっているのでひどく間抜けな格好である。
ミカエラかウォーレンのどちらかをユーリアに抱いて移動すれば良かったのだが、人を担いだ状態ではユーリアがカノープスの飛行に追いつけないので、こんな情けない格好になっているのだった。
「兄さん、グリフォンが!」
斜め後ろを飛んでいたユーリアが、グリフォンの姿を発見して警戒の声を上げる。
「ユーリア、速度を上げるぞ!」
「はい!」
カノープスは一層大きく翼をはばたかせた。
目指すペシャワール城はすでに眼下にある。
「ギル! どこだ!」
「ギルバルド様!」
城内に入ると、カノープスとユーリアはギルバルドの名を大声で連呼した。
帝国兵が出払っているので戦闘になることはなかったが、逆に兵士がいないためにギルバルドの居所を確かめることができない。
しかし城内にいるのは確かだった。その為にミカエラは危険を覚悟で空からギルバルドの姿を探したのだ。
ミカエラは、どうしてもカノープスとユーリアをギルバルドに会わせてやりたかった。また、この二人と話をしなければギルバルドの心の殻は破れないと思ったのだ。
「ミカエラ、ギルバルド殿は広間にいるのではないでしょうか」
「どうして?」
「わたしがギルバルド殿の立場なら、領主の席で敵を待ちます」
「自分は最後まで帝国に殉じたから、民の罪を問わないでくれって?」
「ご明察」
「それだけじゃないわ。ギルバルドは己の戦士の掟に従っているのよ」
「広間ならこちらです!」
ユーリアの案内で一行は広間に急ぐ。
城の中の全ての景色がカノープスには懐かしかった。ゼノビア王国時代、よくここを訪れたものだ。その度に仲睦まじいユーリアとギルバルドをからかったりしていた。
幸福な日々。それを取り戻したい。
ユーリアが広間の扉を開けた。
ウォーレンの推測どおり、ギルバルドは広間の最上段に設えられた椅子に座っていた。両脇には通常より一回り体格が大きなワイアームが控えている。
「ギルバルド様!」
「ギル!」
呼びかける二人を見て、ギルバルドの顔に驚愕が走る。
「カノープス、ユーリア……」
「ギル! もうやめろ! みんな分かってるんだ。お前が悪いんじゃないって。お前が自分の命が大切だから帝国に寝返ったんじゃないって、知ってるんだよ!」
「あの噂を流したのはお前か、カノープス」
「いや、私だ」
言葉に詰まったカノープスの代わりにミカエラが答えた。
ギルバルドはゆっくりと立ち上がると、ワイアームに攻撃準備態勢に入らせた。
「……ウーサー殿を倒した敵の指揮官は女子だと聞いた時は我が耳を疑ったが、しかし愚かなる4王国を倒し、ゼテギネア帝国を築いた皇帝陛下もまた女性。女子だからと言って侮ったオレが愚かであった。女、この南シャロームの民を扇動した手腕、北シャロームを抜いた策謀、まずは見事と言っておこう」
「建前の口上はいらん」
ミカエラは悠然と構えた。
「我は解放軍の旗手なる者。名はミカエラ。オブライエン卿、貴公は実に見事な舞台を設えてくれたものだ。やはり貴公はカノープスがここにやって来ると見越していたのだな」
ギルバルドの右眉がぴくりと上がる。
「野戦の指揮を執っているのが貴公ではないと知れた時、こうなるであろうと確信した。カノープスが我が軍に加わったという情報を貴公が手にしていないとは思っていない。貴公は一対一でカノープスに翻意を促すつもりだったのではないか? 仮に我らが敗れれば、貴公はカノープスを罪人として処刑せねばならぬゆえな。親友を切ること、貴公にはできまい」
「……女」
獣のうなり声がごとき低音がギルバルドの口から発せられた。
「勘違い召されるな。私はカノープスを人質に取ったわけではない。それとも貴公はこの風使いが人質の身に甘んずるような男と思うてか?」
ミカエラはカノープスが髪に挿している羽根へと目をやる。
そこには『火喰い鳥の羽根』があった。
ギルバルドの顔に衝撃が走った。
「オブライエン卿。貴公は何故帝国に従うのだ。帝国の力の前に屈したか?」
「違います! ギルバルド様は決して……!」
ユーリアが悲鳴のような声で言い募った。
ミカエラは悲しそうに笑いながらユーリアを見つめた。
「ギルは帝国を憎んでいるさ。俺と同じか、それ以上にな。だけどギルにはシャロームの平和を維持する義務があった」
静かな声がカノープスの口からこぼれた。
「シャロームはゼノビア建国王ロシュホル陛下を生み、育んだ土地だ。ゼノビアにとっては聖地に等しい。そのシャロームをお任せくださったグラン陛下の信頼の前には、オレの名誉など塵に等しい……そうだよな、ギル? 帝国の犬と罵られようと、陛下亡き後、その信頼に応える術はシャロームを守ること以外にない」
カノープスは『火喰い鳥の羽根』を右手に取ると、ギルバルドに差し出した。
「ギル、もういい。もういいんだよ……」
一瞬だけギルバルドの手が動いた。
心は親友の手を取りたかったのだろう。だがシャローム領主としての義務とグランに対する忠誠がそれを押さえつけた。
哀れだ。しかし為政者として最も重要な素養を持つ男だ、とミカエラは思う。
「オブライエン卿。貴公のグラン王への忠誠とシャロームに対する愛情をエンドラに利用されていると考えたことはないのか」
「……そのような、こと」
とうの昔に知っている。
ギルバルドが奥歯を噛み締めて堪えた言葉は、その場にいる者の心に響いた。
「貴公は此度の我々の蜂起を鎮圧して後、私の首を携えてエンドラに申し開きをするつもりなのであろう? 此度の喧騒は一部の不埒者が怪しからぬ女に唆されただけである、とな。さすれば、シャロームの民は罪に問われまい」
「ギルバルド様……」
ユーリアは嗚咽を含んだ声で言うと、一歩進み出た。
「下がっていろ、ユーリア、カノープス。オレはお前達を巻き込みたくない」
「どうしても戦わねばなりませんか?」
ミカエラの影からウォーレンが進み出た。
「貴殿は……もしやウォーレン殿か!? 貴殿がこの女を推戴しているのか!」
「いいえ。わたしは彼女の補佐に過ぎません。わたしごときに推戴されるような人物が、カノープスとユーリア殿を説得し、あなたを生かすためにこの場に招くことができましょうか?」
「……ならばこの女を捕らえ、晒し者にすれば騒動は収まるか」
「ギルバルド様!」
「ギル!」
ユーリアとカノープスが悲鳴を上げる。
ミカエラは小さく笑った。
こういう男は嫌いではない。頑固ではあるが、心根が真っ直ぐだ。
戦わなければ気が済まないのなら、それを引き受けるのは二人のバルタンではなく、自分とウォーレンが相応しいだろう。
「受けて立とう。カノープス、ユーリア、手を出すな。ウォーレン、ワイアームを頼む」
「はい」
「やめてくれ、ミカエラ!」
カノープスが必死の形相でミカエラの腕を掴んだ。
「大丈夫よ」
ミカエラが微笑みながら言うと、カノープスは腕を掴む力を緩めた。ミカエラの微笑みが、ギルバルドを殺すつもりはないことを語っていた。
「来るがいい。理想を追い求める勇士たちよ!」
「ウォーレン! 雷を放て!」
「御意!」
ウォーレンがワイアームに雷を落とすと同時に、ミカエラはギルバルドの元へ走った。ワイアームは怪力だが、図体が大きな分動きが遅い。ミカエラは容易に彼らの尾による攻撃をくぐり抜けた。
「オレは守らねばならんのだ!」
ギルバルドが鞭を振るう。ラプチャーローズと呼ばれるこの鞭には薔薇の茎のような棘が生えていて、打ち据えられると肉がえぐれる。
ミカエラは予備の短剣を抜くと、わざと鞭をからませた。そのまま長剣の間合いまで一気に詰める。
ギルバルドは鞭を諦め、片手持ちのハンマーを取り出した。
あっさりと主要武器を諦めるギルバルドの判断に、ミカエラは心の中で賞賛を送った。この男は強い。そう思うと心が躍った。
体裁きもウーサーとは比べものにならないほどに見事であり、大振りになりやすいハンマーでの攻撃を完全に御している。
「だが遅い!」
ミカエラは長剣を跳ね上げ、ギルバルドのハンマーをはじき飛ばした。
「見事!」
ギルバルドは歓喜の声を上げた。
すでにワイアームはウォーレンの魔法で動かなくなっていた。
シャロームの民を守り続けることができなくなったのは辛かったが、このような強い戦士に倒されるのなら悔いはない。
ギルバルドは膝を折り、ミカエラの剣が振り下ろされるのを待った。
「ギルバルド様!」
だがその時、ミカエラの脇をすりぬけてユーリアが飛び込んだ。そのままギルバルドをミカエラの剣から守るように覆い被さる。
ギルバルドは咄嗟にユーリアを抱くと、自分と位置を入れ替える。ミカエラに背を向けることになったが、かまわなかった。
静寂が訪れる。
ギルバルドがゆっくり振り向くと、剣を鞘に収めたミカエラと、彼女の側に佇むカノープスの姿があった。
カノープスはミカエラの肩を叩いてから、泣きながらギルバルドを抱きしめた。
「何故、とどめを刺さない」
震える声で言うと、ミカエラは柔らかく微笑んだ。
それはギルバルドの目に慈悲の女神のように映った。
「ねえ、ギルバルド。貴方の決断は間違っていなかった。貴方がゼノビアを裏切った真相を流布したのは確かに私達だけど、もう気付いている人も大勢いたよ」
ギルバルドを抱く二人のバルタンのすすり泣きが響く。
「私はね、旅芸人だったから、いろんな土地を見て回ったよ。大抵の土地で、民衆は為政者に対する不満を抱えて嘆いていた。収穫のほとんどを召し上げられて餓死する人も見た。理不尽な法の犠牲になって冤罪を着せられる人、処刑される人も見た。心が荒んで、自暴自棄になっている人もたくさん見た。人に対する疑心暗鬼から街を焼いてしまう為政者も……焼かれて亡くなる人も。でもここには、それがなかった」
「ギルがそんなことするもんか!」
カノープスが泣きながら言う。
ギルバルドの目から涙が溢れた。強く親友を抱き返す。
「もう一度言う。貴方の決断は正しかった。貴方の統治は正しかった。貴方が己の誇りを捨てて、汚名を着てまでこの地に留まったから、民は24年間憂うことなく幸福に生活することができた。貴方の犠牲は無駄にはならなかった。私は貴方を尊敬している」
「このオレを許してくれるというのか……」
ミカエラはゆっくりと首を横に振った。
「私には貴方を許す権利はない。貴方はすでに民に許されているのだから」
「……ありがとう」
ギルバルドは親友の顔と、恋人の顔を交互に見た。
カノープスは涙で顔をぐちゃぐちゃにして、ユーリアは静かに涙を流しながらも微笑んでいる。自分もきっと同じ顔をしているのだろうと、ギルバルドは思った。
「オレの命をミカエラ殿に預けるとしよう。この命尽きるまで共に戦うことを約束する!」
ギルバルドが反乱軍に降ったとの伝令が走ると、シャロームでの戦乱は幕を閉じた。反乱軍の兵士だけでなく、帝国兵にも安堵の表情があったという。
ほとんどの帝国兵は進んで縄を受けようと両手を差し出した。中にはやっと家に帰れると泣いた者もあったらしい。そうした者のほとんどはシャロームの街から徴兵された兵士だった。そのうちの3分の1は反乱軍に参戦したいと申し出た。彼らは戦力として使えるのかどうなのか判別されてから、戦線に加わることになる。
帝国側から派兵されていた人間は、戦乱の最中に姿を消していた。他の帝国領に逃亡したと思われる。残った者で、反乱軍参入を拒んだ兵士は非公開で処刑された。
それらの戦後処理が一段落ついたのは数日経ってからだった。
ミカエラは本当はすぐにでもベッドに身を投げたいほど疲れていたのだが、小さな宴席に顔を出していた。
ギルバルドは遠慮したのだが、せめてもの祝いとして一席設けたのだ。
カノープスは男泣きに泣きながら、ユーリアは幸せそうに微笑みながら、ギルバルドの側を離れなかった。
「いいね、友達って」
誰に言うとでもなくミカエラはつぶやいた。傍らにいたウォーレンとランスロットが聞き止める。
「あなたの説得には感動しました」
「素直に言ったら? 私が綺麗事を並べ立てるなんて思わなかったって」
「これは手厳しい」
老占星術師は髭を撫でながら笑う。
「ギルバルドに言ったの、あれ、本当よ」
二人がぴたりと動きを止める。
「私はギルバルドを尊敬してる。……個人が手を差し伸べられるのは周りのほんの少しの人だけで、私はずっとそれが不満だったの。でも私はただの踊り子で、助けたいと思った人を全員助けることなんてできなかったわ。だからこそ私は、私が手を差し伸べることができる人達を大切にしてきたつもり。でもね、為政者ならうまくやりさえすれば、たくさんの人を幸せにできる。権力って、そういうものでしょう? それなのに、大抵の為政者は贅沢な力を持っていることに気づきもせずに、与えられた膨大な権力に溺れて、持て余して、愚かな私利私欲に走る。でもギルバルドはそうじゃなかった。権力を御して使い切ったわ。すごい」
ランスロットがぽかんと口を開けた。
「なあに、その顔。私がただの戦争馬鹿だとでも思ってたの? 馬鹿は馬鹿なりにいろいろ考えてるのよ」
ウォーレンは表情こそ変えなかったが、戦場を見下ろしながら考えていた件を思い出す。
ミカエラは指導者として優秀すぎる。
いっそ何かが欠けていれば、皇子を迎える日のために備えることができるのに。
「ウォーレン?」
至近距離にいきなりミカエラの顔が現れる。
ミカエラは片手で前髪を上げると、ウォーレンの額に自分の額を当てた。
「熱はないみたいね。顔色が悪いけど、大丈夫?」
どうやら額を当てて熱の有無を調べたらしい。
平熱だと分かると、ミカエラは無邪気に微笑んだ。
「しんどいのや、辛いのや、悲しいのや、親しい人たちを亡くしてしまうのは嫌よ。あんたもそうでしょ、ウォーレン? だから、困った時は素直に言ってね。孫ほど年の離れた小娘に泣きつくなんて抵抗があるだろうけど、どうせ私は雇われの傭兵なんだし、いつか消えるわ。恥はかき捨てよ。告げ口なんてしないから安心して」
この娘は、まったく。
ウォーレンは苦笑した。
いつの日か彼女を廃して皇子を立てようとしている自分が、ひどく浅ましい人間のような気がする。
いや、浅ましいのは承知している。罪悪感が芽生えるのだ。彼女の信頼を失いたくないと思ってしまうのだ。
「さて、じゃあそろそろポグロムやジャンセニアに派遣した斥候が戻って来る頃だし、次の作戦を考えようかな。ウォーレン、疲れてるだろうけどもう少しだけ手伝って。知恵を貸して」
「少しは休んだらどうですか?」
「私は貧乏性でね、じっとしてるのが我慢できないのよ」
「それなら私も一緒に行こう」
ランスロットが立ち上がる。
「あんたは休みなって。怪我、完全に回復したわけじゃないんでしょ?」
「いや、私も行く」
強情な言い方に、ミカエラはくすくすと笑った。
ランスロットは怪訝そうな眼差しを向ける。
「騎士って頭堅いから嫌いなんだけど、傅かれるのは悪くないなと思ってさ。私みたいな女でも淑女になった気分よ」
ふっとランスロットは頬を緩めた。
「では、どうぞ」
ランスロットは芝居がかった仕草でミカエラに右手を差し出した。
カノープスに問われて言葉に詰まってしまったように、彼女に傅いてしまう理由は分からない。
ただ、自分が傅くことで彼女が微笑むのならそれが全てで、他に理由はいらないと思えるのだ。