第8章 カストラート海 『伝説』(4)

-ジョーカーの札-

 二人の人魚がカストラート海を渡っていた。
 海上はまだ日の出前である。
 カストラート諸島沿岸部の水温は、一年を通してあまり変化がない。それに対して遠洋は海流の影響もあって水温が低く、深く潜るにつれて凍えるほどになる。
 しかし、二人の人魚はあえて厳しい深海を旅路に選んだ。
 この時間帯に浅瀬を行くと、漁師の網に捕まる危険性が高いのだ。
 もっとも深海とて、人間の脅威が完全に排除されているわけではない。人間は頑丈な釣糸の先に錨型の針をくくりつけた仕掛けを流し、深海の大型魚類を狙う漁をする。誤ってその針を肌に食い込ませてしまった人魚がどんな暴虐を受けるのか、彼女らは嫌と言うほどよく知っていた。
「この時間は嫌なものですね」
 フラウタが海面の方向を見上げて忌々しそうに言う。アジェンはその言葉で、忘れようとしていた過去を思い出し、悲痛に眉を潜めた。
 過去、数え切れないほどの人魚が、この時間帯に錨針に掛かって船に引き上げられた。人魚の集落では必ず一人か二人、錨針の犠牲になっている。フラウタとアジェンは出身集落こそ違うが、その意味では共通の過去を持っている。
 通常の針ならば多少なりとも目立つので、人魚の優れた視力で捉えて回避できる。しかし、中には暗い海に潜む黒い針があるのだ。魚を捕らえるための針ならば、黒くする必要はない。むしろ光った方が釣果を得やすい。黒い針は人魚を狙う為の、悪意の針だ。
「……行きましょう、フラウタ。こんな役目は早く終えて、ポルキュス様の元へ帰りましょう」
「帰ることができるのしょうか」
 フラウタは泳ぐのを止めると、三つ又の鉾を握る手に力を込めた。
「ファニングの港に近づく以上、覚悟しています。人間に見つかっても、使者の任だけは何としても果たすつもりです。ですが、アジェン様。……もしも反乱軍の指導者が真の勇者だったら、わたし達はどうなるのでしょうか?」
「それは……」
 アジェンはフラウタの横顔を見つめた。
 フラウタの顔には、期待と不安が入り混じっている。
 もしも反乱軍の指導者が聖剣に認められる勇者であれば、古い言い伝えにあるオウガバトルの時代のように、人魚と人間が共に助け合い、讃え合い、共存していた時代が訪れるかもしれない。
 ただ、勇者といえど所詮人間なのである。
 今やカストラートの人魚にとって、人間とオウガは同義だ。
 人魚はまず、漁場を奪われた。
 陸に生きる人間よりも、海に生きる人魚の方がより多くの魚を獲得できる。それは必然だろう。しかし人間はそれが気に入らなかった。己の漁獲量が減るという、ただそれだけの理由で人魚を締め出した。
 次に珊瑚の森を奪われた。
 珊瑚の森は水温が高く、波が穏やかで育児に適していたので人魚の集会所になっていた。しかし人間は珊瑚が金になるからと、その為には人魚が邪魔だという、ただそれだけの理由で人魚を排除した。
 漁場、珊瑚の森、美しい海。人魚の世界。
 人間は全てを欲し、全てを奪った。
 人魚は人間の世界である陸から何一つ欲しがらなかったのに、人間は人魚の世界である海の全てを欲した。
 挙げ句の果てに人魚の肉には不老不死の力があると決めつけ、骨や鱗には薬効があるとして、人魚を獲物と見なした。
 誰が人魚に不老不死の力があるなどと言い出したのか、今となっては分からない。しかし出来ることなら過去に遡り、そやつを縊り殺してやりたいと人魚たちは思っている。
 人間は欲深で、残虐で、そして腹立たしいほどに無知だ。
 人魚を狩って食べることがどれほどにおぞましい行為か、人間は理解しようとさえしない。
 今の時代、人間と有翼人は友好を保っている。人間にとって有翼人は隣人だろう。その隣人を食べると考えてみたら、自分たちが何をしているか分かろうものだ。有翼人と人魚は姿形の差こそあれ、成長や寿命は全く同じなのだから。
 人間は人魚も有翼人も長寿だという。確かに成人までは人間と同じように成長するが、それ以降は非常に緩やかに年を取る。そして人間の4倍近い歳月を生きる。
 だが人魚から言わせれば、人間の方があまりにも短命なのだ。
 勇者も人間だ。
 もしも勇者がそんな人間たちと同類であれば、聖剣の大義名分と権威を得て、人魚にどれほどの災いを及ぼすか分からない。
「わたしは恐いのです」
 フラウタがぽつりと言う。
 彼女の声色に先ほどとは違う怯えが含まれていることを、アジェンは聞き逃さなかった。
「……わたしもよ」
 アジェンは絞り出すように言うと、海面を見上げた。
 フラウタが本当に恐れているのは、ファニングの人間に狩られるかもしれないという恐怖でも、ポルキュス女王から与えられた使命の重さでもない。
 期待の後の失望だ。
 それはアジェンの中にもあった。
 過去、何度も聖剣の勇者を自称する人間がカストラートを訪れている。
 その度に人魚はわずかな期待を抱いた。
 もしかしたら、この人間は真実の勇者なのかもしれない。
 もしかしたら、再び古の平穏をもたらす存在かもしれない。
 人魚たちは疲れ果てていた。
 いつ狩られるのか。いつ食われるのか。いつ如何なる時、生きながら鱗を剥がれ、肉を削がれ、骨を砕かれる惨事が我が身に襲い来るのか。
 波間で蠢く月影に怯える夜からも、陽にかかる雲の姿に眩む昼からも、夕焼けの赤に血を重ねる黄昏からも、その全てから解放されたかったのだ。
 人間を激しく憎悪しながらも、聖剣の勇者には賢しらな期待を抱く。人魚たちの奥には、相反した気持ちがある。
「さあ、行きましょう」
 アジェンはフラウタの先に立って泳ぎ始めた。
 期待していて裏切られるよりも、疑っていて災難が降りかかる方が心が痛まない。事実、結果はいつも同じだったのだ。
 もしも反乱軍の指導者が聖剣に選ばれなかったら、その時、アジェンは暗殺者となる。
 直接手を下す必要はない。
 聖剣の洞窟は深海にあるのだ。
 洞窟に置き去りにすれば、後は海が片付けてくれる。勇者を僭称した輩は二度に地上へ戻れない。かつて人魚は幾人もの人間を、同じ数の失望を、そうやって葬ってきた。
 聖剣は、人魚の世界で眠り続けなければならない。
 人魚の勇者が生まれるまで。

 その日、アイーシャは夜明け前に目を覚ました。
 アヴァロンの神官であるアイーシャの朝は夜明け前に始まる。起床、祈り、清掃 、朝食と規則正しい勤めが続く。解放軍の朝も早いが、しかしそれは夜が白み始めた頃に始まるもので、アイーシャのように、水平線の向こうが明るくなる前に起床する者は少ない。
 アイーシャは神官服に着替えると、船首へ足を向けた。見張りの兵に労いの言葉と朝の挨拶を送り、船べりに腰かける。
 嘘のように平和な景色だ、とアイーシャは思う。
 そして、しばらくしてから小さく苦笑した。
 『嘘のように』平和ということは、真は醜い争いが続いていると言っているようなものだ。もしもミカエラにそう告げたら、彼女は唇の端を吊り上げて皮肉そうに笑うだろう。
 真は醜いのだ、人は醜いのだと言ったのは、あの勇者なのだから。
 カストラートへの船旅の途中、アイーシャはミカエラに全てを暴露した。
 大神官就任を拝命できないのは、未だ母の復讐を諦めきれない心の醜さがあるだけでなく、ガレスと対峙した時、ミカエラ様とアッシュ様を己の剣とした罪があるためです。しかし神に選ばれた勇者たるミカエラ様のご命令に背く不敬を犯すことも耐え難い、と。
 アイーシャは、その場で手打ちにされても仕方がないと思っていた。
 しかし当のミカエラは実にあっさりとしたもので、もっと早く言ってくれたら良かったのにと笑い飛ばした。そして、「人は醜いものだ、真とはえてして醜いものだ。己の醜さを自覚せず、真の醜さから目を逸らす者にこそ問題がある。心が醜悪であろうと、行いが善を目指すものであれば、それで良い」。そう言ったのだった。
 アイーシャは再び苦笑した後、うつむいた。
「おはようございます!」
 突然見張りの兵の大声が響き渡る。アイーシャは驚いて振り返った。
「しまった。見張りに見つかってしまったか」
 ミカエラは前に突き出していた両手を引っ込めると、ひょいと肩をすくめた。アイーシャは首を傾げる。
「おはようございます、ミカエラ様。よい朝ですね」
「おはよう。今日も凪だな」
「はい。船がたくさん出ています。今日の朝餉も腕を振るいますね」
「楽しみだが、少し手加減してくれ。お前の飯はカナに負けず劣らず美味い。これ以上舌が肥えて粗食に耐えられなくなってしまったらどうしてくれる」
 ミカエラは冗談めかして言いながら、アイーシャの横に陣取った。
 沖には幾艘もの漁船が出ている。この季節の旬の魚は、日中は深海に、夜間は浅くまで上がって来るので、漁師はそれを狙って早朝に海へ出る。最近では解放軍という大口の顧客が生まれたことで、漁船の意気は上がり、港は活気付いている。
「ミカエラ様は魚貝類がお好きだと伺いました」
「ああ。どうやら私は魚を好むようだ」
「たくさん買い付けて燻製や塩漬けにしておきましょうか」
「良いな。カストラートは塩が安いから好都合だ。だが、腐らないか?」
「完全に乾燥させてしまえば滅多な事では腐りませんが、あまり手間をかける時間がなさそうですね。それでも、風通しのよい場所に干しておけば長持ちしますよ」
「風通しの良いところか。ん? それは甲板か?」
 ミカエラとアイーシャははたと顔を見合わる。
 二人の脳裏に同時に思い浮かんだのは、甲板に翻る干し魚だった。
「……やめた方が良さそうですね」
「間抜けすぎるな。偽装にもならん」
 二人が声を上げて笑う。
「そういえばミカエラ様。先ほどの見張りに見つかってしまった、とは、何か不都合なことがおありだったのですか?」
 ミカエラは見張りの青年にちらりと目を向けると、アイーシャの耳へ口を寄せた。
「私さ、カストラートにいる間にね、一度はみんなを驚かせることを目標にしてるのよ。後ろから驚かせるつもりだったの。ランスにも同じことやったんだけど、面白かったわよー。船縁にいる時に後ろから肩叩いたんだけどさ、海に落ちると思ったのかな。本気で驚いて冷や汗だらだら。ランスは空が苦手らしいけど、海も駄目みたいね」
「まあ、ミカエラ様ったら……それは少々」
「悪趣味も趣味のうち」
 ミカエラは子供のように頬を膨らませると、ぷいっと顔を背けた。しかし、そこで見張りの青年と目が合って、顔を真正面に戻す。
「……ミカエラ様の軽やかさが、うらやましい」
 アイーシャは小さくつぶやいた。
「はは。私は」
 いい加減なだけだ。ミカエラは笑ってそう続けようとしたが、アイーシャの真剣な表情を見て取ると、ふっと真顔に戻る。
 そして、アイーシャの頭を優しく抱いた。
「どうした、アイーシャ?」
 アイーシャの目に、じんわりと涙がにじむ。
 美しいこの海にも、人間と人魚の争いが隠れている。高く澄んだ空の下でも、人と人は争っている。海にも大地にも血が流れ、その度にどこかで誰かが泣いている。そして、幾人かは胸に復讐を抱くのだろう。
 ミカエラはアヴァロンでの愚を許した。しかし、復讐は善を目指す行為ではないと、遠まわしに窘めている。復讐は復讐を生み、憎しみは連鎖する。連鎖の例は掃いて捨てるほどある。
 それならば、ガレスを仇と睨む自分は、人間を仇と睨む人魚たちの心は、どこへ辿り着けば良いのだろうか。
「アイーシャ様!」
 二人の沈黙は、悲鳴のような呼びかけでかき消された。旗艦の真横に人魚が顔を出している。
「ビオラか!」
「はい! ミカエラ様、アイーシャ様、大変です! 沖で、人魚が人に! テティスが抗戦しています!」
 ミカエラは素早く立ち上がると、見張りの兵に戦闘配置の合図を送るよう指示する。けたたましい鐘の音が、夜明け前のファニングを包み込んだ。
「アイーシャ、ビオラと共に先行せよ! 間もなく私も向かう! 殺させるな!」
「はい!」
 答えるが早いか、アイーシャは海へ飛び込んだ。
 盛大な水柱が上がる。
 ミカエラは飛沫を避けることもなく、むしろ身に浴びた。
 海水の冷たさは、戦場をふいに抜ける涼風にも似ている。
「何があった!」
 3番艦の扉を蹴り壊すような勢いでカノープスが顔を出す。
「カノープス、ギルバルドを連れて来い!」
「ミカエラか? 分かった!」
 その時、2番艦の甲板に血相を変えたギルバルドが現れた。旗艦のミカエラの姿と、3番艦の甲板を蹴ったカノープスの姿を確認すると状況を察したらしく、逸る気持ちを抑えるようにして足踏みをする。
 二人が旗艦に到着すると同時に、ランスロットが船倉から登場した。船上ゆえ、金属鎧ではなく綿甲を身に着けてカラドボルグを携えている。完全なる戦闘態勢だ。
 全員が集うと、ミカエラは彼らに側に寄るように指示して、声を潜めた。
「沖合いで人魚が襲われている。テティスが抗戦中だ。おそらく、漁師がカストラートの人魚を捕らえたのだろう。アイーシャとビオラを先行させた」
「時期が悪いな……」
 ギルバルドはきつく唇を噛み締めた。
「災難は平穏の隣人だ。ランスロット、長剣を預かってくれ。カノープスの邪魔になる」
「御意」
 ミカエラは腰に佩いていた長剣をランスロットに手渡すと、髪の毛をきつく結わえる。結い終わり、一息吐いたあと、毅然とした表情で顔を上げた。
「これよりファニング沖での係争調停に向かう! 低空兵団第3、第5小隊、魔獣兵団第2、第13小隊は準備が整い次第私に続け! ギルバルド、船を任せた! ランスロットとエセルはファニングの人々の沈静化に勤めよ!」
 応、と声が返るが、命令に明確さが欠けるため、兵は戸惑っている。
 カノープスは翼を広げると、ミカエラを抱き上げ、飛び立った。
「係争、か」
「あの命令は港に近い所に住んでる人にも聞こえる。訌争や紛争や、ましてや抗戦って言うわけにはいかないでしょう。どちらかを敵だと断定することになる」
「……そっか。そうだな。あの町は、噂が早い」
「カストラートの情報伝達力は侮れないわ。群島だから甘いかと思ったんだけど、かえって陸より徹底してる。海で隔てられている地理的な悪条件が危機管理と情報網を育てたんでしょうね。皮肉だわ」
 ミカエラは遠くなりつつある港から、なかなか目を離そうとしなかった。

「フラウタを返せ!」
 アジェンがテティスに飛び掛った。
 ようやくフラウタを錨針から解放したテティスは、重症のフラウタを振り回すわけにもいかず、抵抗を躊躇った。その隙を突いて、アジェンは強引にフラウタを奪い取る。
「その怪我では海の中で体温を保てません! 船に運び上げて、アイーシャ様にお任せください!」
 ビオラが声を張り上げる。
「人の手に仲間を委ねろだと!? 貴様それでも人魚か!」
「仲間を守るためには、時として人に頼ることも必要です!」
「アヴァロンの人魚の本音はそれか! 我らカストラートの人魚は、己が命欲しさに誇りを売り渡しはせん!」
「お願いですから聞き入れてください! 彼女が死んでしまう!」
「まだ言うか、貴様ら!」
 アジェンは憤怒の形相で三叉の鉾を振りかぶった。
 それを待っていたかのように、漁師たちが網を投げかけようと構える。彼らの目には復讐の炎がある。漁師の何人かは、アジェンの魔法で傷を負っているのだ。
「お止めなさい! まだ諍いを続けるつもりですか!」
 アイーシャが叫ぶ。
「ですが、神官様!」
 アイーシャは言い募る漁師を無視して、視線をアジェンへ向けた。
「血の匂いに惹かれて、鮫が集まり始めています。鮫の事はわたしより、海に住まうあなたの方が良くご存知のはず。わたしたちの力では鮫の群れからあなたを守ることができません」
 まだ時間は夜明け前。鮫が近海で活動する時間ではない。しかし、これだけ大量の血が流れているのだ。獲物の匂いを嗅ぎ付けた鮫が、歓喜と共に深海から牙を剥いて現れても不思議はない。
「ならば船を沈め、貴様らを囮にする。貴様らが我等と魚と同一視するように、あの獰猛な獣には人魚と人間の区別などつかぬ。噛み砕かれ、食い千切られてしまうがいい! 貴様らには獣の腹がお似合いだ!」
 漁師たちが一斉に怒号を上げた。
 口々に殺せとわめき、銛を構える。
 テティスとビオラは、両手で耳を塞いだ。
「お黙りなさい! どうしてあなたがたには分からないのですか!? 彼女がその気になれば、船を沈めることなど造作も無いのですよ! あなたがたが未だ船の上にあるのは何故ですか! 彼女が必要以上の攻撃を行っていないからでしょう! あなたがたと彼女と、どちらが野蛮ですか! 恥を知りなさい!」
 アイーシャは、怒りと興奮のあまり息を切らした。
 頭の片隅に、ガレスを敵を睨む己の醜さが浮かんだ。しかし、己のことは棚に上げた。鮫のこともあるが、フラウタの怪我は一刻を争う。言い争っている時間も惜しい。
「……あなた、アジェンといいましたね」
 アイーシャはアジェンの腹部を注視すると、痛々しげに眉をひそめた。
 テティスがアジェンと争わなかったのは、アジェンの身をも慮ったからだ。おそらく、漁師たちは気づいていない。人間で彼女の様子に気づくことが出来るのは、人魚と親しく暮らしていたアイーシャくらいだろう。
「このような時間の近海に、しかもあなたのような状態の方が訪れるとは、何か切迫した事情があるのではありませんか?」
 アジェンはびくりと身をすくませると、無意識に腹に手をやった。
「申し遅れました。わたしの名はアイーシャ・クヌーデル。神に選ばれた勇者、ミカエラ様にお仕えするアヴァロンの神官です。未熟なこの身なれど、神に誓って、彼女を助けます。約束を違えた時は、即刻この首を叩き落しなさい」
「おやめください、アイーシャ様! フラウタは、もう!」
「ビオラ、テティス、あなたたちも船へ上がりなさい。危険です」
 アイーシャは、フラウタの傷だけをひたと見つめた。
 フラウタの傷は致命傷に近い。右脇腹にかかった錨針が、漁師たちの引き上げとフラウタ自身の抵抗で左胸にまで及んでおり、内臓も引き裂かれている。
 ぱっくりと開いた無残な様相は、ガレスの斧を受けたウォーレンの傷口を連想させた。
 あの時、アイーシャはウォーレンを助けられなかった。ミカエラがいなければウォーレンは死んでいた。助けられなかったのは己の未熟ゆえ。神への信仰が足りないのだ。
 助けなければと思った。助けられると思った。それが責務だからだ。だから首を賭けた。
 フラウタを助けなければならない。神の慈悲と愛を信じ、全てが健やかであること望み、ひたすらに祈らなければならない。それは神官の責務であり、生ある者の義務だ。
 アジェンがふ、と息を吐いた。
 目の前の神官は、ただフラウタの傷にのみ集中している。
「……頼む」
「承りました」
 アイーシャは力強くうなずいた。
「みなさん、手を貸してください。怪我人を引き上げます。ビオラ、テティス。アジェンを船上へ」
「神官様。人魚なんかより、こいつらを先に……」
 漁師がおずおずと切り出した。
 アイーシャは愕然となった。
 フラウタの傷がどれほど凄惨なものなのか、素人でも一目見れば分かる。アイーシャが乗る船には、アジェンの魔法で傷ついた漁師が数名横たわっているが、いずれも緊急を要する怪我ではない。
 ようやく取り戻した慈愛の梯子を、足で払われたような感覚だった。
「……よろしいですか。この中で最も惨い怪我を負っているのは彼女です。わたしは戒律に従い、より多くの命を助けるために、重傷者から癒します。あなたがたもご存知のように、神の前に全ては平等。人間も人魚も関係ありません」
 アイーシャは吐き捨てるように言うと、フラウタの両脇に手を入れて、船上へ持ち上げようとした。アジェンが必死になって海の中から押し上げているが、気を失ったフラウタの体はひどく重い。見かねたビオラとテティスが今一度海に入り、ビオラが船上から、テティスが海中からフラウタを担ぎ上げる。漁師たちは、最後まで手を貸さなかった。
「わが望み、イシュタルの波動となりて奇跡を呼ばん…、ヒーリングオール」
 アイーシャの声が絶望で震えた。
 船上は、ひどい有様だ。
 引き裂かれた網、肉片が付着した錨針、血まみれで横たわる人魚と人間、殺気立って銛を構える人間、溜め込んだ魔法でそれを牽制する人魚。
 ――神よ、お助けください。ミカエラ様、人が醜い。人は醜い。
 甲板で跳ねる魚だけが、日常のままだ。
「アイーシャ、無事か!?」
 カノープスの大音声が海面を叩いた。
 アイーシャは人魚にかざしていた手を離すと、矢継ぎ早に人間に癒しの魔法をかけた。泣いているが、精神の集中は乱れていない。むしろ己を放棄して、癒しに全神経を集中させている。しかしそれは、普段の彼女からすれば異様だった。海面を揺らすようなカノープスの声にも、アイーシャは気づいていない。
「待ってろアイーシャ! 今行く!」
「待て、カノープス! 高度を上げろ! 鮫だ!」
 カノープスは一瞬硬直すると、強く翼で空を叩いた。加減をする余裕がなかったせいで、一気に高高度まで上昇する。急上昇に耐えかねたミカエラは、ぐっと息をつめた。
 海の底から、まるで沸き立つようにして流線型の魚影が現れた。それらは統一した指揮系統を持つ軍のように、完全な円形を描いて船に殺到する。数匹が、おそらく人魚の血が漂っていたであろう場所で牙を剥き、陣形を乱した。漁師たちの悲鳴が響く。
「鮫除けの薬を撒く! みな、息を止めよ!」
 ミカエラは腰のポーチから布包みを取り出すと、結び目を解いて海面へばら撒いた。
 カノープスには、この白い粉末が鮫に勝てるような代物には見えなかった。あれが猛毒だったとしても、海水はコップの水とは違う。無尽蔵だ。
「ねーさんにもらった薬よ」
「デネブの、か」
「ええ。鮫の忌避薬よ。ねーさんが作った薬は信じられなくても、毒なら信じられるでしょう? でも、長くは持たないわよ」
 カノープスは固唾を呑んで海面をみつめた。
 白い粉末が海に落ちると、海の獣たちはゆっくりと船から遠ざかっていった。しかし折角の獲物が名残惜しいのか、船を中心に円を描く。やはり忌避薬の効果が切れたら、再び獲物を海中からなぶるつもりなのだ。
 高度が下がれば、水面に近づけば、鮫に食われてしまうかもしれない。カノープスは己の遠近感を信じられなくなり、必要以上に翼をはためかせて高度を上げた。
「水神グルーザよ、我に冷たき鉾を与えたまえ……アイスストーム!」
 凄まじい暴風が海面を吹き荒れ、澄んだ音を立てながら凍る。
 数匹の鮫が氷結に巻き込まれて、動きを止めた。
 アジェンが、漁師たちの注目を無視してミカエラを見上げている。
 グルーザの教えに従って生きた人魚は年を経るとより強くグルーザの加護を得る。そしてかの神からの授かりものである魔法、アイスストームを行使する。このアイスストームは人間の魔術師が行使するものよりも強力だ。殺到する鮫を退ける力があるほどに。
 彼女は運悪く針にかかった人魚ではない。ミカエラは直感した。
 ようやく追いついてきたグリフォンに騎乗すると、ゆっくり高度を下げる。
「アイーシャ、負傷者の報告をせよ」
 しかしアイーシャは、フラウタの横でぼんやりと膝をついているだけで反応しない。
 もしや人魚が死んでしまったのかとミカエラは肝を冷やしたが、人魚の胸は浅く上下していた。
「アイーシャ」
 ミカエラは厳しさを込めて名を呼んだ。すると、ようやくアイーシャがゆるゆると顔を上げる。
 潤んだ瞳には空ろが宿っていた。
「……漁師の方々4人は軽症です。傷も残りません。ですが彼女、フラウタが重症です。幸い、命の危機は脱したものの、しばらくの間は絶対安静が必要です。完治には二ヶ月ほどかかります。また、これ以降自然治癒に任せるとなれば、傷跡が残るものと予想します」
「なるほど。アヴァロンの『聖母』アイーシャ、お前以外の神官を遣わしていれば、彼女の命は失われ、漁師たちにも深刻な傷跡が残ったということか。それ以前に全員が食われておったやもしれんな。よくやってくれた」
「いえ……神官として、当然のことをしたまでです」
 漁師たちがぎょっと目を剥いてアイーシャとミカエラを交互に見る。
 アイーシャが噂に聞くアヴァロンの『聖母』であったことも勿論だが、そのアイーシャに命令を下すとなれば、神に選ばれた勇者たるミカエラしかいないのだ。
 これまで蒼白だった漁師たちの顔に、喜色が浮かんだ。
 年長の漁師がここぞとばかりに身を乗り出す。
「人魚殿、ご無事でなによりだ」
 ミカエラは漁師たちよりも先に人魚に声をかけた。
 漁師たちの顔にあからさまな不満の色が混じる。
「我が名はミカエラ。神に選ばれた勇者とも呼ばれている。彼らの非礼は人間を代表して私が謝罪する」
 深く頭を下げる。
 二度目のアイスストームを溜め込んでいたアジェンは、すっと手を引いた。
 そしてミカエラを凝視する。
 彼女が思い描いたミカエラの印象は、アイーシャと同じだった。
 すなわち、炎神ゾショネルである。
 水と炎は反発する性質を持つ。
 グルーザの加護を受けて生まれた者は、ゾショネルの恩恵を受ける炎魔法を極めることができない。ゾショネルの加護を受けて生まれた者は、グルーザの恩恵を受ける水魔法を極めることができない。
 しかしアジェンは、ミカエラは外見こそゾショネル神に酷似しているが、本質はグルーザに近いものを感じていた。乾いていない。水の気配が濃厚にある。
「お前たちはファニングの漁師だな?」
 アジェンを見据えたまま、ミカエラが言う。
「お前たちの無事を、グルーザ神に感謝する」
 ぎろりと、目だけを漁師たちへ向ける。
 これが合図であったかのように、遅れていた解放軍の小隊が船を囲むようにして到着した。
 それまで喜色か不満の表情を浮かべていた漁師たちだったが、蛇に睨まれた蛙もかくやと思われるほどに竦み上がる。
「彼らの行いは、グルーザ神の恵みたる海に養われる者に相応しい行為ではありません。グルーザ神の加護を受ける人魚に卑劣な行いを働いたばかりか、負傷者の救助を怠りました。グルーザ神もさぞお嘆きになることでしょう」
 アイーシャが淡々と述べる。
 この言葉を受けたミカエラは、船上へ目を向けた。
 脂と血でてかてかと光る漆黒の錨針が、そこにあった。
「神の法は勿論の事、人の法にも反する行いであるか」
「……はい」
「合い分かった。被害者が人魚であることから、ポルキュス陛下より返答があるまで、超法規的措置として彼女らの身柄を我が解放軍で預かる。また、お前たちの行為だが、現行法に照らし合わせれば障害致傷、ならびにカストラート特別法第1条1項、およびカストラート特別海洋法第5条3項違反に該当する。以上の罪で、私はお前たちを告発せねばならん。低空兵団第3小隊、彼らをファニングの詰め所までお連れしろ」
 低空兵団第3小隊隊長が、きびきびと返答を返す。
 漁師たちは悲鳴のような声で言い募る。
 今までカストラート特別法第1条1項――人魚法で裁かれた人間はいない、と。
 カストラートにはカストラートのしきたりがある。勇者様はカストラートの海のしきたりを尊重してくださらないのか。人魚の味方をするのか。
 「……それらは、しきたりではありません。あなたがたはこれまで神と海を裏切っていたのです。ミカエラ様の寛大な処置に感謝しなさい。そしてグルーザ神への懺悔を忘れずに行いなさい」
 海にはアイーシャの失望が滲む声が残された。

 港湾都市ファニングに停泊中の解放軍軍艦、その旗艦の司令官室には鬱々とした表情の面々が居並んでいた。
 カノープスは落ち着きなく体をゆすり、ランスロットは右手を顎を覆うように当てて言葉を飲み込み、ギルバルドは腕組みをして思案にふける。アイーシャは直立不動で、強く拳を握り締めていた。
 二人の人魚を連れ帰ったミカエラは、彼女らを2番艦の船倉へ案内すると数人の神官とビオラとテティスを側につけた。本来は海にあった方が良いのだろうが、港は彼女らにとって様々な意味で危険すぎた。
 港には、ミカエラの『係争調停』の結果を伝え聞いたファニングの人々が、半ば暴徒と化して押し寄せていたのだ。
 彼らの訴えはこうだ。
 ミカエラがこれ以上事を荒立てなければ――それはつまり、漁師たちの処罰を取り消し、フラウタとアジェンを処分すれば、ポルキュスへこの事件が伝わらず、ファニングに対する人魚の復讐を招くこともない。
 また、漁師たちは勇者様への献上品として人魚を捕らえようとしたのであって、善意から発する行為だった。何ゆえ責められるのか理解できないと言う者もあった。
 解放軍は、港の暴徒の沈静化に丸一日を要した。ミカエラは今晩も宴席に招かれていたが、中止にせざるを得なかった。
「アイーシャ、気を静めろ」
「わたしの事など、どうでも良いのです!」
 アイーシャの拳は怒りを堪えるように、ぶるぶると震えていた。
 ファニングの暴徒の矛先はミカエラのみならず、アイーシャにも向けられた。むしろ、アイーシャに集中した。
 アイーシャが、漁師を後回しにして人魚を癒したからだ。
「わたしが許せないのは、彼らの不敬と不遜です! 彼らはグルーザ神の御名を声高に叫びながら、グルーザ神の眷属であるフラウタとアジェンに暴虐を働き、海の恩恵に与りながら、海に生きる者の義務たる負傷者の救助を怠ったのですよ! あまつさえ人魚を献上品などと貶めるなんて! なんて下劣な!」
「それが現実、という事だ」
 アイーシャは驚きに目を大きく見開く。
「カストラートの人々にとって、グルーザ神への信仰と人魚への行いは矛盾しない。人魚とあの船の甲板で跳ねていた魚は、共に『獲物』だ。人魚は莫大な富をもたらす高級魚。人魚を捕らえて売り飛ばせば、一生遊んで暮らせる。これこそグルーザ神の恵み。グルーザ神のお導き。グルーザ神に感謝を」
 ミカエラは芝居がかった口調で言うと、ひょいと肩をすくめた。
「私に人魚を食わせようと考えたのは、私を崇めているからだろう。しかし根底には他の都市への対抗心と、生活に直結する危機感があると見る。蓄えも少なくなっているこの季節、先の嵐でさらに厳しくなっている。しかし他の島は我らを心尽くしの料理でもてなした。料理の中には庶民が一生涯口にできないものもあっただろう。ファニングの人々はこれを伝え聞いたに違いない。我らが他の島に心を寄せて寄港地を移せば、ファニングの面子に傷がつき、解放軍によるファニングの特需も水泡に帰す」
 ミカエラは喉を鳴らして愉快そうに笑った。
 二人の会話に割って入ろうとしていたカノープスは、ミカエラの言に足元をすくわれた。
 船に残されることが多かったカノープスは、現在集った人物の中で最もファニングに詳しい。
 解放軍の財政に余裕があるとは言い難いが、民心の掌握を必定とするミカエラの命令もあって買い付けを行った時は対価を納めている。軍隊とは略奪するものであるから、良い意味で予想を裏切られたファニングの人々は一斉に解放軍を崇めたてた。ミカエラも言ったとおり、この季節に現金収入をもたらした解放軍はファニングにとってまたとない上客なのだ。
 カノープスは彼らの必死さをよく知っている。何を犠牲にしても、何を差し出しても解放軍を逃したくないだろう。
「……ミカエラ様は彼らの現実をお認めになり、彼らを支持なさるおつもりなのですか」
「認めるとも、支持するとも言っていない。この場面で我らが為すべきは、両者にとっての常識と正義を把握して、これを調停する術を模索することだ。それ以上でも以下でもない。内なる善と神の教えを否定されたお前が激しく怒る気持ちは分かる。しかし、この状態で我らまで冷静さを欠いて何とする。常識と正義を否定されて強烈に反発し、怒り狂っている彼らと何も変わらない。永遠の平行線に己を添わせるつもりか」
「本来は交わり、一つの線となっているはずのカストラートを二本の平行線にしているのは人間ではないのですか。人間は人魚が統治権を得てからカストラートは争いの海となったなどと言いますが、人魚にとっては数千年もの昔から、人間との戦いで血を流す争いの海だったのです。アヴァロンで暮らす人魚の中には、カストラートを故郷とする者もいます。彼女らは好き好んで故郷を離れたのではありません。残酷な争いを避けるため、幼い子供を守るために、止む無く故郷を離れたのです」
 アイーシャは堪えきれない悲痛に顔を歪めた。
 先刻、アジェンに罵られたビオラとテティスはどんな気持ちだったのだろうか。カストラートで戦い抜いているアジェンたちにしてみれば、アヴァロンへ逃れて敵である人間の庇護を受けているビオラたちとその親は、裏切り者としか思えないのだろう。しかし、彼女らとて故郷のカストラートで暮らしたかったのだ。
「そもそも、カストラートの争いの種は人間が撒いたものではないですか。穂を刈り取るのは種を撒いたものの責任のはずです。それを人間はあたかも己が被害者であるかのように声高に騒ぎ立てて、人魚に犠牲を強いています。人間の傲慢で恥知らずな言い分に正当性はありません。人魚の怒りにこそ正義があります。人間の醜さが、終わらない争いを招いているのではないのですか?」
「アイーシャ、お前は己の善と人魚の理に過剰に肩入れして、カストラートの民心を察する術を失っているようだ。彼らにとって人魚は弾圧者であり、ある者にとっては仇でもある。これも事実であることを忘れたか?」
「私は人魚に肩入れしてなど……。ただ、どちらが正しいのか、どちらに正義があるのかを見定め、現状を正すべきだと申し上げているのです。人間に罪があるのは明らかではないですか」
 アイーシャは焦燥の色をにじませる。
「では人魚に正義があると言うお前は、正義を地上に具現化するため如何なる方策を執る。人間は地上のみ、人魚は海のみで暮らすべきと定めるのか? 海に寄らずして陸の人間がどうやって暮らす。地面に染み込んだ水はいずれ海へ通じ、川は海に達する。陸に寄らずして人魚はどうやって暮らす。大雨が降り注いだ時、陸の森がなければ海は濁る。珊瑚礁は島がなければ形成されない」
 焦燥を感じているのは、ミカエラも同じだった。
 人間の醜さを見たアイーシャが激しく憤る気持ちはよく分かる。ミカエラもあの騒動の詳細報告を受けた時、漁師たちの唾棄すべき下劣さに怒りを覚えた。また、アイーシャの清らかで慈悲あふれる行為は好ましいと思った。
 しかしその事と、ここでアイーシャと人魚と人間の正義と悪について論じることは話が違う。神学者ではあるまいし、机上の空論を弄んでも現実的な解決策を見出すことなど出来ない。
「それとも人間にカストラートを出て行けと言うつもりか? それこそカストラートを地獄に変える行為だ。人間はこれまで以上に徹底抗戦の構えを取るぞ。カストラートの人間とてこの島と海が故郷だ。さらに彼らは、このカストラートでオウガバトルを戦った者の末裔であることに誇りを持っている。故郷と誇りを力で踏みにじられた者がどれほど苛烈な抵抗を見せるのか、歴史を紐解くまでもなく現在のカストラートを見渡せば一目瞭然だろう。一義的な善悪に分かち、独善によって彼らを裁けば、数千年に渡る負の連鎖に絡め取られている現状にさらなる憎しみを注ぐだけだ。憎しみの連鎖の最中にある者に理想論が通用しないことは、お前こそがよく知っているだろう? 連鎖から逃れられるのは、よほどの人格者か聖人か、あるいは愚者だということもな」
 アイーシャはミカエラを見つめたまま、きつく唇を噛みしめた。
「ミカエラ」
 ランスロットが止めに入る。
 しかしミカエラは、僅かに視線を動かすことで、ランスロットを退けた。
「これまで人魚を殺めた者の中には、死に至る病に蝕まれた家族を救うために罪を犯した者もおるやもしれんな。彼らの罪と愛は、いかに解釈されるべきものだろうか」
 アイーシャの顔に衝撃が広がると同時に、ランスロットの心臓が大きく脈打った。
 ――もしも本当に人魚たちが奇跡の力を持つのだとしたら。
 ランスロットがそう考えたのは、つい先日だった。
 金や栄華のために人魚を殺す者は厳罰に処して良い。だが家族のために、大切な人のために、となると。
 そこまで考えたが、ランスロットは結局答えを出せなかった。
 もしもシャロームの海に人魚がいたのなら、ランスロットは死の病に伏した妻の為に、血眼になって探したかもしれないと思ったことを否定できなかったからだ。この罪悪感と後ろめたい希望は暗雲のように濃く陰り、ランスロットを包み込んでいた。
「仮にだが、私がフォーリスの屍にビオラとテティスの生き血を振り掛ければ蘇ると言えば、アヴァロンの神官たちがそれを支持した場合は、どうなるだろうな」
 アイーシャは、素早く踵を返した。
 側にいたランスロットが止める間もなく、アイーシャは扉に手をかける。そこで己の立場を思い出して足を止めた。
「退出を許可しよう。この場を去るも踏みとどまるもお前の自由だ。しかし退出して後、お前の弁舌も弁明も、我のみならず我が臣にも届かん」
 アイーシャははっとなって振り向いた。
 ミカエラは視線を2番艦へ向ける。アイーシャもそれに従うようにして、ゆっくりと視線を動かした。
「人は脆く、醜いものだ。欲が罪に転ずるだけでなく、愛が罪となることもある。そして、罪によって永らえる愛もある。神ならぬ人の身の我々は、利と理、神の法と地上の法を戦わせ、妥協点を探し出し、曖昧な決着を見ることしかできんのだ。これ以上は、人の驕りぞ」
 アイーシャは、未だ憤る心を抑えながら、はい、と唇だけを動かした。
 ミカエラはゆっくりと椅子に身を任せると、天井を仰いだ。
「……かの暴虐、かの騒動は、私が至らなかった為に起こったとも言える」
 深いため息が続いた。
 ギルバルドは眉根をしかめる。
 ミカエラが、己が至らなかったためと言うのであれば、責任は現在集っている首脳陣にもあると考えなければならない。献策も換言も彼らの役割の一つであり、それを可能にするために現在の役職に就いているのだ。ミカエラの言に馬鹿正直に従うだけならば一兵卒でもできる。
「私の、すなわち新生ゼノビアと解放軍の、人魚に対する姿勢を明確にすべきだった。まずは人魚を尊重し、ポルキュスとの会談に持ち込んで密約を、と目論んでいたのだがな。所詮はカストラートを知らぬ私の愚かさによるものであった。また、アヴァロンでトリスタンの救出を銘打ってしまったことで、カストラートの人々は解放軍の基本姿勢は旧ゼノビアにあると錯覚し、ゼノビア統治時代のカストラートに範を仰いでしまったのやもしれん」
 ミカエラは苦笑しながらギルバルドへと視線を向けた。
 ギルバルドはゆっくりと腕組みを解いた。
「……政治的な手段では、早急の修復を見込めぬと見る」
「ああ」
「だがミカエラ、お前には余裕があるな。オレが考えられる糸口はアジェンという人魚だが、彼女は何者だ?」
「ポルキュスの勅使だ」
 やはり、とギルバルドとアイーシャが唸った。
 解放軍に保護されたアジェンがようやく口を開いたのは、夜も更け、港が静かになった頃。それも、ミカエラに対してだけだった。
 人間よりも聴力に優れる人魚は、船倉にいても港の状況を理解していたのだろう。ミカエラが訪れるまで、アジェンは意識を取り戻さないフラウタを抱きしめ、沈黙と鋭い視線をもって神官たちの介護を断った。アヴァロンの人魚であるビオラとテティスも、アジェンにとっては人間と同じように信用ならない存在のようだった。
「聞いて驚け。人魚は、とうの昔に聖剣ブリュンヒルドを探し当てているらしい。しかも、彼女は聖剣が眠る深海の洞窟まで私を案内する任を仰せつかっているとも言う。ただし、同行は一人に限る、とな。何とも有難い申し出だ」
 居並んだ面々は、揃ってぽかんと口を開けた。
 ミカエラは、くくっと意地悪く笑う。
「ポルキュスは私に『真であるか』と尋ねた。私は『勇者を試されよ』と伝えた。ポルキュスの答えが、これだ」
「……どう考えたって罠だろ、それ」
 カノープスが呆れたように言う。
「私も承服しかねる。貴女が洞窟へ赴き、そこで万が一の事があれば解放軍は、ゼテギネアはどうなる。それに同行は一人のみに限るとおっしゃったそうだが、あまりにも礼を欠くのではないか?」
「だが、行かねばなるまい。なあ、ギルバルド、アイーシャ?」
 カノープスとランスロットはぎょっとなった。
「ギル、お前はミカエラが洞窟に行くのに賛成なのか!?」
「賛成ではない。が、しかし。聖剣の洞窟の話が真であれば、現状を打破する糸口となる。いや、突破口となろうであろうと……あさはかではあるがな」
 ギルバルドの言葉に、ランスロットが眉間に皺を寄せる。
「ミカエラ。聖剣の洞窟の話が真実としてもだ、おかしな話ではないか。ポルキュス陛下がブリュンヒルドの在処を知っていたのなら、今まで持ち出さなかったのはなぜだ? 私には皆目見当がつかん。人魚の女王が聖剣の威を振りかざせば、カストラートの人々はひれ伏さざるを得なかっただろう。貴女を自分たちの世界である海に招き寄せ、亡き者にするための罠だと考えるほうが、得心がゆく」
「だがな、ランスロット。即座に罠と知れる申し出をするのも、おかしな話だろう?」
「推論をあたかも事実であるかのように解釈するのは早計ではないのか?」
 ランスロットはやや声を荒げて言い募った。
 皮肉げな微笑みを絶やさないミカエラの様子は、戦の前の好戦的なミカエラにひどく似ている。人魚の言を聞き入れ、危機に飛び込んでゆきそうな気配があるのだ。
「みなさんは、お気付きになられましたか?」
 突然、アイーシャが口をはさんだ。
「アジェンは身ごもっています」
 カノープスの体が硬直した。
「わたしは幼少の頃よりアヴァロンの人魚と共に過ごしましたので、少しばかり人魚に親しいのですが……人魚は人間と違って、子供が出来にくいのです。妊産婦はとても大切にされます。人間の脅威からも逃れなければならないので、集落の奥深くで守ることが普通です」
 アイーシャは横目でミカエラの様子を伺った。
 ミカエラが小さく頷く。
「わたしたち教会が出来る限りのお手伝いをしていたアヴァロンの人魚たちでさえそうなのですから、カストラートの人魚ではさらに深刻なのではないでしょうか。アジェンが人の手の及ぶここファニングまでやって来たのは、並々ならぬ決意を必要としたはずです。わたしの友、ビオラとテティスもとても信じられないことだと驚愕しておりました」
 アイーシャはアジェンの腹部を思い出した。
 人間には、あるいは妊婦を知らない男性には判別しがたい丸み。そこに手のひらを当てるだけで幸福な気持ちになる、あるいは手のひらをあてる母を見るだけで、周りまで心穏やかになれるふくらみだ。
「元より、種族を問わず妊婦は尊いものですが、みごもった人魚が勅使に立つ重大性がいかほどのものか。カノープスさんならば、お分かりになりますでしょう?」
 アイーシャはすがるような眼差しをカノープスに向けた。カノープスは、ぶるっと体を振るわせる。
 もしもユーリアに命が宿ったら、風にも当てぬように大切にするに違いない。妹だからという肉親の情もあるが、有翼人の子供はそれだけ少なく尊いのだ。そんなユーリアを敵の勅使に立てるとしたら、集落全体の未来を差し出すと同意だ。
「わたしは、アジェンを遣わしたことをポルキュス陛下の誠意であると解釈いたします」
 アイーシャは強い眼差しで言い切った。
 これを述べるために、この場に残ったのだ。
 カノープスは顔色を青くしながらも、口を開いた。
「……ポルキュスの誠意は分かったよ。俺だって、想像したらぞっとする。女をさ、特に身ごもってる女を人質にする訳がない。最低だ。禁忌だよ。でもな、有翼人だから分かることもあるんだよ。禁忌を犯してでも、相手の信用を得て戦局を有利にしようって考えた時に、さ」
「やめろ、カノープス。もういい」
 ギルバルドの声には苦痛が混じっている。
 ミカエラがポルキュスに送った書簡の詳細を知るのは、ギルバルドとウォーレンだけだ。
 書簡にはこう記されている。帝国に組みしてから子供が生まれにくくなっていないか。暗黒道を歩む帝国に追従した人魚はグルーザから見放されつつある。子供が生まれないのはその証拠。人魚は緩慢な滅びの道を歩もうとしている、と。
 実際は人魚がグルーザに見放されたのではない。人魚の人口減少はデネブが記録していた儀式魔術素材としての人魚の鱗や骨の流通量を根拠としている。ここ20年ほど、流通量は増加している。しかも珍重される幼体のものもだ。エンドラがポルキュスを領主に任命し、カストラートが争いの海と呼ばれることになった時期と見事に一致する。
 人間との争いで多くの人魚の命が失われた。本来は成人前の幼い人魚も鉾を取らざるを得ないほどに、人魚は疲弊している。彼女らの年令と妊娠出産が可能な年令は一致している。元が少なくなれば子供の数も減るのは必然だろう。また、この争いを利用して人魚を商品として扱う闇商人も暗躍しているに違いない。
 ミカエラはこれを逆手にとって、グルーザの加護が消え失せたのかもしれぬと脅をかけた。
 書簡の内容を知ったギルバルドは、ミカエラの非道さに一瞬だけ嫌悪感を抱いた。やはりユーリアの事を連想したのだ。
 しかし心理戦としては優秀な案だ。ポルキュスもミカエラが神に選ばれた勇者なのか疑ってかかっているだろうが、完全否定しているわけでもないだろう。そんな人物に神に見放されているかもしれないと告げられたら、揺れる。ここは何としてでも人魚を帝国側から解放軍側に引き入れなければならない場面なのだ。手段など問うている場合ではない。
 書簡の内容を知っており、さらに有翼人をよく知るギルバルドは、この場面でポルキュスが妊婦を寄越す真意が痛いほど分かる。だが帝国に組している人魚が帝国内でさらに地位を上げるために、肉を切らせて骨を絶つ覚悟で反逆者ミカエラを罠に陥れるかもしれないと考えるカノープスの気持ちも分かるのだ。
 ミカエラは、二人に優しく微笑みかけた。
「ポルキュスの誠意に感じ入ったことも確かだが……しかし、聖剣は深海の洞窟に眠る。この情報は私の推論に一致するのだ」
 お前たちも、オウガバトル伝説を知っていよう。
 ミカエラはそう切り出した。
 突然、何を当たり前のことを言い出すのか、という視線がミカエラに注がれた。
 ゼテギネアに生きる者でオウガバトル伝説を知らない者などいるはずがない。知らないとしたら、余程変わった幼少期を過ごした者か、余所の大陸から来た旅人くらいだ。
 だからこそ、とミカエラは言う。
 カストラートがオウガバトル終結の地だということは広く知られてる。そして天空の騎士の一人がオウガバトル終結後、聖剣を地上に残したことも常識だ。ブリュンヒルドがカストラートに眠っているのではないかと推測するのは容易ではないか。
 天空の騎士が何のために聖剣を残したのか、その理由は謎に包まれている。考えられるとすれば戦勝記念だ。解放軍も石碑を建てたり旗を残したりする。天空の騎士を現代の我々と同列に語ることに抵抗はあるが、騎士であることに代わりないのだから、その辺りの心境は似通っているのではないだろうか。
 しかしブリュンヒルドは数千年の長きに渡って眠り続けている。
 『三神器』の一つ、『聖剣ブリュンヒルド』ほどの聖遺物となれば、魔術師、あるいは宝探し専門の盗賊にとっては一攫千金の代物だ。各国の王が血眼になって探しても不思議ではない。実際に三神器のうち残り二つ、『聖杯』と『聖なる腕輪』はグラン王が探し出している。
 所在すら知れなかった『聖杯』『聖なる腕輪』が探し出されているにも関わらず、カストラートにあると推測可能な『聖剣』だけが発見されていない違和感。カストラートには小島も含め数千の島があるが、オウガバトルの終結から何千年も経っているのだ。それなりの手がかりが見つかってるはずである。
 アイーシャに『聖剣はカストラートにある』と告げたマンゴーという魔女もいる。彼女が何者なのかはさておき、カストラート贔屓でなくしても民間伝承でそう伝えられていることも確かなのだ。
 しかしこれまで、聖剣の勇者を詐称する者すら現れなかった。
「ゆえに、私はブリュンヒルドが眠る場所は地上ではないと推測する」
「……海」
 全員が同時につぶやいた。
「ああ。人の手が届かぬ世界。人魚が支配する深海だ」
 ミカエラは視線を床に落とした。
 港の中にあっても、船は海に揺られてゆっくりと傾いでいる。
 船倉に穴があいただけで、人間はいとも簡単に海に引きずりこまれてしまうのだ。板一枚の下には、未知の、そして恐怖の世界がある。
「なるほど。何千年もの間に、お前と同じ結論に至った人物も大勢いたことだろう。古今東西の書物に親しんだウォーレン殿のような人物ならば、あるいはその推論を目にしたこともあるやもしれぬ。だがそれらの人々を持ってしても発見に至らなかった。それは海が人魚の領域だからか。オクトパスあたりを飼い慣らして虱潰しに調査しようとしたところで、海は広すぎる。人間とって危険極まりない場所でもある」
「しかし、もしも人魚と人間の関係が友好的であったならば」
 ランスロットは戸惑いと喜びの入り混じった眼差しで、ミカエラを見つめた。
「そのとおり。なにゆえエンドラが人魚の自主独立を約束するような真似をしたのか、この疑問の答えにも合致する。政治的な思惑もあれど、それ以前に人魚を懐柔し、聖剣の探索を命じるため、あるいは在処を吐かせるためではないのか? 聖剣に拘るラシュディがエンドラを唆した可能性も捨て切れん」
 ミカエラはふ、と苦笑した。
「グラン王が人魚を厚遇していたら、旧ゼノビアには三種の神器が揃っていたかもしれんな」
 ギルバルド、カノープス、ランスロットの間に沈黙が落ちた。
 一瞬だが、彼らは夢を見た。
 もしも『三神器』がゼノビアに揃っていたら、現在の暗黒に支配されたゼテギネアはなかったのではないか。平和で富んだゼノビアが今も存在しており、ギルバルドは魔獣軍団長として、カノープスは副団長として、ランスロットは騎士として、誇りをもってゼノビアに仕えていたのではないか。心が引き裂かれるような悲しみも別れもなく、穏やかで満ち足りた生活を送っていたのではないか。
 そしてグラン王が異様なほどの長寿であったのは、もしや『三神器』の賜物か、と。
「ランスロット。私はお前の『何ゆえポルキュスが聖剣の威を振りかざさなかったのか』という問いにも答えることができる。聖剣の在処が分かっていても、聖剣を振るう人魚の勇者が生まれていなければ、人魚にとって何の意味もなかろう?」
 ミカエラは、アイーシャに微笑みかけた。
「人間の都合で物事を考えたら、大切なことを見落とす」
「ミカエラ様……」
 アイーシャは口元に手を当てると、喜びに震えた。
 ミカエラは再び2番艦の方向を眺めると、表情を険しくする。
「海中に眠る聖剣を発見した人魚はこう考えたことだろう。これは我々の聖剣。グルーザ神が人魚に授けてくださった剣。水によって守られた人魚だけの剣。人魚の勇者が生まれるまで、聖剣は海に眠るべき。……人魚の敵は何者であったか思い出せ。帝国がいかに人魚を厚遇しようとも、所詮は人間の都合でしかない。不用意に聖剣を持ち出したりするものか。聖剣は人間に対する人魚の切り札なのだ」

 ポルキュスは頭の中で何度も同じ言葉を繰り返していた。
 ――勇者を試されよ。
 反乱軍から返ってきた書簡には、その一言しか記されていなかった。
 また先だっての書簡の署名は『新生ゼノビア王国国王代理にして現解放軍指導者、そして神に選ばれた勇者』という仰々しいものだったが、今回の書簡には『神に選ばれた勇者ミカエラ・ネート』としか記されていなかった。
 署名を省略したわけではないだろう。対外書類においては、正式な役職を記すのが人間社会の常識だとポルキュスは知っている。仮に省略したとしても、3つの肩書きの中で『神に選ばれた勇者』を選んだ以上、そこには何かの意味がある。
「陛下、なにとぞご返答を賜りたく存じます」
 鎧姿の男が一歩前へ出る。
 ポルキュスは気怠げな眼差しを男に向けた。
「フェロット殿、陛下はお体が思わしくないのです。明日になさってくださいませんか」
「しかし、事は急を要します! このまま反乱軍の狼藉を許すおつもりですか? これ以上あなた方の海があのような輩に荒らされるなぞ、わたくしは耐えられませぬ!」
 ――わたし達の海が、ではなく、お前の為の海が、だろう。
 ポルキュスはその言葉を寸前で飲み込んだ。
 ポルキュスとて、フェロットを完全に信用していたわけではない。ただ彼は実にまめまめしく働いたし、人当たりも良かった。また、エンドラへの恩義がフェロットに対しての遠慮を招いたのも確かだ。
 その遠慮はあっけなく消えた。
 反乱軍の書簡を受けたポルキュスは、あくまでも念の為にと秘密裏にフェロットを調べさせた。
 結果は反乱軍の書簡の内容を肯定するものだった。
 フェロットはカストラート各都市から徴収された税を着服していた。その上、人魚狩りを行う闇商人に便宜を払って見返りを受け取っていたらしい。これだけでも十分にポルキュスを打ちのめす裏切りであった。
 また、ポルキュスから人間に向けて出される書類、書簡の類は、あらかじめフェロットが目を通すことになっていたが、これに関しても考えが変わった。
 着任当時フェロットは、人魚と人間では物事の捉え方や言い回しが微妙に違うので、余計な齟齬を産まないように仲介すると申し出た。ポルキュスはそれをあくまで『好意』だと思い、受け取った。
 実際は好意どころか、悪意の塊だった。
 フェロットは書簡に目を通すことで、ポルキュスを、引いては人魚を監視していたのだ。また、自身の不正を行いやすいように内容を改変している恐れもある。
 ポルキュスはカストラートの女王であり、カストラートの領主である。帝国軍はポルキュスの下におかれる。本来、ポルキュスの書簡が帝国の検閲を通るなど有り得ないのだ。
「ファニング、ジャービス、ムルロア、トケラウ、アーケザス、マルデンの者どもは、よりにもよって反乱軍の女頭領を歓待したそうではないですか! カストラートは南から反乱軍に制圧されているも同然です!」
「存じ上げております」
 ポルキュスが穏やかに答えると、フェロットは驚きに目を大きく開いた。
「では、何故この危急の事態に兵を用立てては下さらないのですか。帝国に仇名す者を駆逐するは、わたくしのみならずあなた様にとっても義務であります。あなた様は皇太子殿下がアヴァロンへご出征あそばされた過日、座視し、静観なされました。皇太子殿下は反逆の輩と邪教の徒を排除すべく奮戦されましたが、地の利には抗えず、一時撤収なさいました。陛下よりのお言葉は未だございませぬが、そのお怒りはあなた様もご推察でございましょう。ましてこの現状。……事と次第によっては、わたくしは本国にあなた様の行動を報告せねばならぬのです」
「フェロット殿、それは……」
「わたくしも辛いのです。赴任して以来、わたくしはカストラートとあなた方の為に尽くしてきました。カストラートはわたくしの第二の故郷です。あなた方はわたくしの同胞です。どうかわたくしの心痛をお察し下さい」
 フェロットの言葉尻は、半ば嗚咽を含んでいた。
 以前であれば、ポルキュスはこの芝居を信じ込んだことだろう。兵を用立てて、大切な同胞を死に追いやったかもしれない。
「反乱軍の書簡は、宣戦布告を示唆するものでした。それはあらかじめ伝えたはずです。ですからわたしは『真であるか』と、真意を問いました。反乱軍からは『勇者を試されよ』と返信がありました。戦意は明らかです。しかしわたしは態勢も整わぬまま闇雲に兵を出し、わたしを慕う者たちに犠牲を強いるほど愚かではありません。カストラートでは海を制するものが勝利を得るのであり、海は我ら人魚の領域です。出撃の頃合を見計らっているに過ぎません」
 フェロットの裏切りは、確かにポルキュスにとって衝撃的だった。だが所詮フェロットなど、悪事に優れるだけで吹けば飛ぶような木っ端役人に過ぎない。もとより人間など、オウガよりも汚らわしい存在だ。所詮は人間、と揶揄と苦笑であしらうこともできる。
 本当の衝撃は、暗黒道を歩む帝国に従ってからグルーザ神に見放されたのだという反乱軍の指摘だった。
 エンドラにカストラート王位を保障された24年前。しばらくは帝国の手に頼るにしても、いずれ人魚の手によってカストラートを制するためには、兵となる同族の数を増やさなければならないと考えた。
 人魚の女性一人あたりの生涯出産数は人間とそれほど変わらない。しかし人魚は有翼人と同じく長寿であり、実に人間の4倍以上も生きるためなのか、出産から次の出産までの間隔が長い。だから、それほど危機感を抱いていなかった。
 しかしここ24年、何人の子供が生まれただろうか。何人の妊婦がいただろうか。側近のアジェンが身ごもったのは、一体何年ぶりだろうか。グルーザ神の恩恵は、もはや人魚には与えられないのか。
 ここで判断を誤っては、人魚は滅ぶ。
「……反逆者についての旨、承知いたしました。海においてあなた様は無敵。わたくしなどが賢しらに申し立ててあなた様のお考えが濁っては一大事にございますゆえ。しかし陛下、聖剣の探索については予断許されませぬ」
「許されぬ。では、エンドラ殿の勅を受けているのですか?」
「勅はございませぬが、皇帝陛下のお側近くにある高貴な御方より厳命されております」
 ポルキュスは口をつぐんだ。
 エンドラの側近くには多くの人物が侍っている。その中でカストラート駐留帝国軍隊長であるフェロットに命令を下すのであれば、大将軍ヒカシューか、あるいは四天王か。
 いや、正式な命令でなくとも良い。たとえばゼノビアに駐留していたデボネア将軍はどうだろうか。彼は女帝の逆鱗に触れて、ハイランドから最も遠いゼノビアに追いやられたという噂がある。汚名返上のために聖剣献上を画策し、フェロットに対しては昇格と本国復帰を餌に囁きかけたのかもしれない。あるいはフェロットが悲嘆にくれるデボネアに吹き込んだのかもしれない。
 マラノのアプローズはどうだろうか。
 東ゼテギネア最大の商業都市であるマラノには物資が集まる。はらわたが煮えくり返るような話だが、哀れな人魚の亡骸も運河を通ってマラノへ運ばれただろう。フェロットがアプローズと渡りをつけている可能性は十分過ぎるほどある。アプローズはエンドラの太鼓持ちだ。現在は男爵に過ぎないが、さらなる飛躍を図るため、大将軍ヒカシューの娘ラウニィーとの婚姻を画策しているとも聞く。フェロットの申し出があれば、渡りに船とばかりにいそいそと乗り込むだろう。
 バルモアのアルビレオは。カストロのアーレスは。ディアスポラのノルンは。遠く離れた見知らぬ土地の人間どもは?
 誰にも理由がある。誰もが怪しい。
「聖剣を献上奉れば、皇帝陛下のご勘気も解けましょう」
 ふいに、渦の中に引き込まれてゆくような感覚がポルキュスを襲った。
 エンドラによって己の地位のみならず人魚の立場が保障されている現実は、重々承知している。
 しかしエンドラは人魚ではなく人間だ。己の存命中に死ぬだろう。
 そうなった時、誰が人魚を後押しする。
 皇太子たるガレスだ。
 エンドラの勘気を解いたところで、ガレスの不信を解かねば必ずカストラートを取り上げられる。また地獄が来る。
 ガレスが死んだ後は、その後継者が死んだ後は。
「反乱軍への備えと聖剣探索。両立し難い難問ではありますが、善処します」
「何よりのお言葉。このフェロット、必ずやお伝え申し上げます」
 フェロットは主語を誤魔化した。
「此度の戦に際しても、陛下の号令あらば我らカストラート駐留帝国軍、一兵卒に至るまで一丸となってお仕え申し上げる所存。丘に住まう我らなれど、お役に立てる事あらば如何様にもご利用くださいませ」
「フェロット殿の、ひいてはエンドラ陛下に忠誠を誓う神聖ゼテギネア帝国軍の勇敢さ。誠に心強く、また心に染みる思いです」
 ポルキュスは安堵の微笑を作って見せた。
 フェロットが、お体をご自愛くださいませとお為ごかしを口にしながら部屋を去るまで、ポルキュスは気力を振り絞って笑みを顔に浮かべた。
 ――勇者を試されよ。
 ポルキュスは天井を仰ぎ、そして俯いた。
 どうして人魚は自主独立を保つことが出来ないのだろう。
 どうして、人によってしかカストラートを保持できないのだろう。
 支配され、虐げられる。狩られて、喰われる。
 どうしてこんな屈辱的な仕打ちを受けなければならないのだろう。
 ポルキュスは歯を食いしばり、拳を握って涙を堪えた。
 かつてのオウガバトルにおいて、人も人魚も有翼人も魔獣達も、全てが神の元に平等だったはずだ。戦士として、神に仕える者として、全てが平等だったはずだ。
 人魚は、神によって――。
 ポルキュスの瞳から、ついに涙がこぼれた。
 悔しい。悔しい。悔しい。
 人魚は何かに頼らなければ、己を確立できないのだろうか。人は神に寄らずしても繁栄しているというのに、人魚は神に見放されればたやすく滅びの道へ追いやられるのか。
 もしも人魚の勇者が生まれていたら、聖剣が人魚を選んでいたら、こんな事にはならなかったかもしれない。神に背くような思考に至らずに済んだかもしれない。
「……勇者を試されよ」
 フラウタとアジェンをファニングの反乱軍の元へ送り出したのは、一昨日の夕刻。順調に海を渡っていればファニングに到着するのは昨日早朝。
 反乱軍の説得に成功すれば、聖剣の祠へ向かうのは本日早朝。祠に到着するのは夕刻。
 二人がポルキュスに成否を伝えられるのは、早くとも明後日の朝だ。
 あと少し、時間を稼がなければならない。真実を見極めるその日まで、時間を稼がなければならない。
 ポルキュスは右腕に視線を下ろした。
 焼けただれ引きつれたような傷跡が、指の先から肩までびっしりと張り付いている。
 もしも勇者と名乗る女が同じ傷を張り付かせて現れたら、その時は容赦なく魔法を浴びせかけ、兵を動かすだろう。
 だがもしも、勇者が傷のない腕で光り輝く聖剣を携えていたら、その時は。