エンゲージ

 エンドラはバルコニーからゼテギネアを眺めた。
 反乱軍がやってくる。
 聖剣・聖杯・聖なる腕輪の神器を携え、天空の三騎士を従え、女神フェルアーナからタブレット授かり、神に選ばれた娘がやって来る。
 エンドラは見も知らぬ女に思いを馳せる。
 彼女は己の正義を疑ったことはないのだろうか。
 人にはそれぞれの正義があると気付いているだろうか。
 彼女はこの戦いで何を得て、何を無くしたのだろうか。
「陛下、ヒカシュー大将軍が謁見を賜りたいとお申し出です」
「ここに通せ」
 侍女は逡巡した。
 この部屋は女帝の私室であり、臣下が入室できる場所ではない。
「ここに通せと言っている」
「かしこまりました」
 侍女が立ち去ったのを確認してから、エンドラは組んでいた腕をほどいてバルコニーの手すりに肘をついた。手すりにもたれかかり、白く雪化粧を施された庭園を眺める。
 無意識の動作にエンドラは苦笑する。
 年若い頃……少女だった頃はよくこうやって花園を眺めていたものだ。もう何十年もこんなふうに庭を見るのを忘れていた。
 最後にこの姿勢をしたのは婚礼の前夜だったか。
 あの頃の自分は弱かった。
 父王や兄はエンドラを溺愛し、身体がそれほど丈夫ではなかったのもあって、風にも当てぬようにとひどく過保護に育てた。
 自由に生きればいい、やりたいことをやればいい、煩わしい事は全部自分たちがやるから。呪文のように繰り返し言われ、この世に汚いものや醜いものがあることすら知らなかった。
 突然そんな世界に放り出されたのは15のとき。
 父王が暗殺され、皇太子たる兄も謎の死を遂げた。直系の王族で残るはエンドラただ一人。
 愚臣たちは、気の弱い少女だったエンドラを傀儡の王に据えて、ハイランドを支配しようと目論んだ。次々に有力貴族がエンドラの元を訪れ、婚姻を勧めた。
 何が起こったのか分からなかった。
 助けを求めても誰も答えてくれなかった。
 そう、ヒカシューさえも。
 だから強くなるしかなかった。
「陛下、ヒカシュー大将軍がご到着になりました」
「お前達はさがれ」
「……かしこまりました」
 虫を払うように手をひらひらと動かしてエンドラは言った。侍女達が退出する衣擦れの音が遠ざかり、重装の鎧がこすれる金属音が近づく。
「陛下、出陣のご挨拶に参りました」
「ご苦労」
 ふふ、とエンドラは笑みを漏らした。
 振り向きもせず居住まいも正さないエンドラの様子に、ヒカシューは怪訝そうに眉をひそめる。
 ふと、バルコニーにもたれかかるようにして景色を見る女帝の姿に懐かしさを感じた。
 この姿には見覚えがある。
 その既視感が、ヒカシューの昔日の記憶の扉を開けた。

 すでに騎士であったヒカシューはエンドラの婚礼の前夜、警護のために離宮に詰めていた。そこにエンドラの侍女が訪れ、殿下が呼んでいると告げた。
 ヒカシューが困惑していると、上官は行ってこいと促した。
 婚礼の前夜に男が近づくなど余計な誤解を招きかねないと思ったのだが、上官は濁流派の貴族たちと違い騎士の精神を重んじる清廉潔白な人間であったから、いまやただ一人残った王族であるエンドラの意向には絶対服従である。
 それでもとヒカシューは言ったのだが、上官は頑として譲らなかった。有力貴族の子弟であるヒカシューは幼少のエンドラの遊び相手を務めていた事もあり、そういう人間と話して気分を紛らわせたいのだろうと言う。
 ヒカシューは半ば上官命令のような形でエンドラの部屋を目指した。
 離宮の中は不自然なほどに人の気配がなかった。エンドラの部屋の扉も開いたままだ。伝令の侍女の姿もなく、不用心極まりない。
 それを奇妙に思いながらヒカシューは一声かけて入室した。
「来てくれたのね、ヒカシュー」
 バルコニーに肘をついたエンドラが振り向かずに言った。
 エンドラの足下にはトランクがあり、服装は旅装束だった。ヒカシューは首を傾げる。
「ここに来て」
 エンドラの声は震えていた。
 側まで寄ると、エンドラが泣いているのが分かった。染み一つない乳白色の肌に、透明な涙が小さな道を作っていた。
 なんという美しい人だろう。
 父をなくし、兄をなくし、政争に揉まれ、意に染まぬ婚姻を迫られ哀しみに暮れていても、それらはエンドラの美しさに影すら落とせない。むしろ繊細な装飾品のように彼女を彩る。
 日ごと、年ごとにエンドラはまるで純化されるように美しくなる。
 ヒカシューは状況を忘れて見入った。
 突然エンドラに手を取られ、ヒカシューは反射的に身を竦ませた。エンドラは悲しそうな顔で拒絶を無視し、ヒカシューを抱きしめた。
「わたしを連れて逃げて」
 か細い声でそう囁いた。
 ヒカシューがその言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「お願いよ、ヒカシュー」
 エンドラはヒカシューの鎧に頬を寄せた。鎧は夜の空気で冷えていたが、内側にあるヒカシューの体温を想像するだけで暖かい気持ちになる。
 ヒカシューは無言でバルコニーに立てかけられた小さなトランクを見下ろした。革でできたみすぼらしいトランクで、脇に水袋と革製の上着が吊されている。瀟洒なこの場に似つかわしくない。これは下町の宿屋などでみかける庶民の持ち物だ。
「ヒカシュー?」
 返事がないのに不安を抱き、エンドラは顔を上げた。
 ヒカシューの見開いた目がトランクからエンドラに移動する。いや、正確にはエンドラが着ている服にだ。
 麻の上着、木綿の服、革のブーツ。最高級の絹やリネンしか身に付けたことがないはずのエンドラが、何故このような衣服を纏っているのか。
「これは一体……」
 ヒカシューは放心したままエンドラの瞳を見つめた。
「あなたが好きなの」
 巨大なハンマーで殴られたような衝撃がヒカシューを襲った。
「わたしは……あなたでなきゃ嫌。女王になんかなりたくない。結婚なんかしたくない」
 ヒカシューは強い力でエンドラを押しやった。
 エンドラは涙が溢れ続ける瞳でヒカシューを見つめ続ける。
 泣いていても、心乱れていても彼女は美しい。
 だが。
 ヒカシューの身体ががくがく震えた。エンドラが触れた場所が、エンドラを押しやった手が、まるで焼きごてを当てられたように熱い。このまま内側から腐ってしまいそうだ。
「駄目です……殿下はこの国の女王となられるお方……」
 エンドラの顔にさっと哀しみのベールがかかる。
 身体を襲う熱さの正体をヒカシューは突き止めた。
 この熱さは多分、下界の人間が神聖なものに触れてしまったための罰。
「女王になんてならないわ……。あなたが好きなの。小さい頃からずっと、あなたが好きなのよ……だから、一緒に行きましょう……」
 エンドラはしゃくりあげながら言った。
「私には、妻が」
 声も震える。
 ハイランドは軍事国家だ。騎士の消耗も激しいために貴族はかなりの早婚である。ヒカシューも例外ではない。
「妻がいるから、駄目だと言うの?」
「はい」
「妻を愛しているの?」
「……はい」
 エンドラは両拳を握り、ぶるぶると震えた。
 目に見えない怒りが空気中を伝播してヒカシューを捕らえる。
「それならわたしは女王になるわ! そうしてあなたを夫にするの! 女王の命令よ。逆らえないでしょう!?」
「駄目です、殿下。王といえ法に逆らってはなりません。王が法を破れば国は瓦解します」
「国なんかどうでもいい! 父様や兄様を殺した国をどうしてわたしが守らなくちゃいけないの!? もう嫌! 何も思い通りにならないならこんな国わたしはいらない!」
「……駄目です。駄目です!」
 ヒカシューは頭を振った。
 他の女性にここまで求められたら、妻に罪悪感を抱きつつも感謝の言葉を述べるだろう。
 だが、目の前にいるのはエンドラだ。
 ハイランドの王女、そして女王になる女性だ。剣を捧げ、生涯の忠誠を誓う主である。そしてヒカシューにとっては何よりも美しく、何よりも神聖な女神だ。
 女神に恋する男がどこにいるだろう。
「殿下」
 ヒカシューは懇願するように言った。
 エンドラの顔から哀しみが消え、紅い毒花のような邪悪に笑みに変わる。
「殿下!?」
 エンドラは上着を、ローブを、引き裂きそうな力で脱ぎ捨てた。袖のない膝丈の下着一枚になる。肩が、腕が、月明かりに照らされて青白く浮かび上がる。
「わたしを抱きなさい、ヒカシュー。わたしはあなたの子を産む。どうせ堕ちるならあなたも道連れにしてやる」
「できません」
 エンドラはヒカシューに詰め寄ると、大きく右手を振り上げヒカシューの頬を激しく平手で打ち据えた。
 甲高い音が静かな部屋に響く。
「……殿下は私の剣の主。殿下のお側で、騎士として私は力を尽くします」
「わたしが欲しいのは忠誠じゃない! わたしが欲しいのはあなたなのに! どうして分かってくれないの!?」
「殿下」
「名前で呼んで! わたしの名前はエンドラよ! 殿下じゃない!」
 そのとき、不安定な状態でバルコニーに立てかけられていたトランクが倒れ、その衝撃で留め金がはずれた。
 中からこぼれ落ちたのは下着や宝石の入った小さな袋、そして二人分の小さな食器。
 カップが転がり、エンドラの踵に当たった。
 ただならぬ物音を聞きつけて、隣室に控えていたらしい侍女が現れる。
 侍女は下着姿のエンドラと、頬に赤い痕を残したヒカシューの姿をみてぎょっとした。
「下がりなさい!」
 エンドラの怒声が飛ぶ。
 ヒカシューはマントを翻し、バルコニーを去る。
「殿下は婚礼を控えて心が乱れておられる。よくお慰めして欲しい」
「ヒカシュー!」
 エンドラの悲痛な声と、それに続く嗚咽がヒカシューの背中を叩く。
 心が引き裂かれそうだ。
 動揺で手が震える。
 自分は女神を汚してしまった。
 罪悪感で倒れそうになりながら、ヒカシューは足早に部屋を後にした。

 ヒカシューはエンドラを見つめた。
 暗黒道に堕ちた女帝は他に畏怖を感じさせるほどに、禍々しくも美しい。すでに老境にさしかかろうという年令であるにもかかわらず、女帝は暗黒の力で若く美しくあり続けた。
 あの日、ヒカシューはエンドラの救いを求める手を取れなかった。
 泣きながら自分に抱きついたエンドラを、抱き返すこともできなかった。
 花を愛した優しい少女が女王になるのを見てきた。民のために、心は凍っているのに慈悲の女王であろうと必死でもがき続けていた。
 春を呼ぶと言われた娘が、氷の女王になり、やがて死を撒く黒い女帝になった。
 彼女を利用しようとした貴族たちを影で粛正した時も、やがて暗黒道に導かれ強大な軍事力を背景に四王国を滅ぼした時も、恐怖政治を敷いて民を苦しめた時も、ヒカシューはエンドラの側を離れなかった。
 最上位騎士ハイランダーとして、エンドラの凶行を止めなかったのは誤りだったろう。何故ですかハイランダー、と訊かれた事もあった。デボネアのようにエンドラに直談判し、結果反乱軍に参戦した騎士もいる。ハイランド初の女性聖騎士であり、ただ一人の娘であるラウニィーも聖騎士としての誇りを見失わず、反乱軍に身を投じた。
 自分でも分からない。正しいのは彼らだ。
 だが、間違っていると分かっていてもヒカシューの忠誠は変わらなかったのだ。エンドラは彼の中で剣の主であり、そして女神であり続けた。
 今まさにこの時も。
「反乱軍はどの辺りにいる?」
 記憶の中を彷徨い続けていたヒカシューは、その声で我に返った。
「クリューヌ、シュラマナ両方面からザナドゥを目指して進軍中です。明後日にはジャンワリア周辺に展開するかと」
「そうか」
 エンドラは目を伏せた。
 わたしは最初、何が欲しかったのだろう。
 いくら記憶をたぐりよせてもはっきり見えて来ない。
「心を殺すのと身体を殺すのと、どちらが辛いのだろうな」
 ぽつりとエンドラはつぶやいた。
「心と身体、ですか?」
 突然の問いかけに、ヒカシューは狼狽する。
 エンドラの質問にはすでに決められた答えが用意されていているような気がして、もしも間違えてしまった失望されてしまうのではないかとヒカシューはいつも怯えるのだった。
「ああ。傷つけられるのではなく殺されるとのだとしたら、どちらが辛いのだろう」
 馬鹿な話をしている。
 だがエンドラは問いかけずにはいられなかった。
「どうだ? ヒカシュー」
「私には分かりかねますが……心、でしょうか。身体の死は一時的なものです。身体が死ねば、心は新たな身体に宿って生まれ変わります。ですから、身体の死は辛くありません」
「そうか」
 エンドラは柔らかく微笑んだ。
 それはかつての春を呼ぶ娘と呼ばれた頃のものだった。
「心は生まれ変わる……」
 欲しい物はたくさんあった。
 父と兄がいた幸福な時間。子供達に与えてやれなかった愛情。自分が守り、自分を守ってくれる国。たった一人の男。欲張って全部を手に入れようとした。その中から一つだけ心が持って行くのなら。それが許されるのなら。
「陛下?」
「……もしも再びこの世に生を受けることができたのなら」
 女神が微笑む。
「そのようなこと、陛下は」
「ヒカシュー。妾は……わたしは人だ」
 エンドラは真っ直ぐにヒカシューの瞳を見つめた。その顔は凪の海のように穏やかだ。
 ヒカシューは己を縛っていた鎖が砕ける音を聞いた。

 まだこの方の手は私に差し伸べられているだろうか?
 まだこの人の手とわたしは繋がっているだろうか?

「もしも再びこの世に生を受けることができたのなら、私は……」
 ヒカシューは震える声で紡いだ。
 エンドラの唇の端が悲しげに歪む。
 また騎士として仕えるのか。
 それとも自分を抱きしめてくれるのか。
 ヒカシューの真意が読めなかった。
 どちらでもいい。側にいてくれるなら、それでいい。お前だけは私を拒み続けるだろう。誰よりも側にありながら、私を抱き締めはしないだろう。それでもいいのだ。

 ――だが、一握の希望を。

「ヒカシュー、わたしを抱きなさい」
 いつか、同じ言葉を聞いた。
 だが今は命令ではなく、懇願だった。
 この震えと熱さの正体は、本当に女神への不敬なのか?
 二人分の小さな食器。
 あれを見たとき……。
 ヒカシューは何かに突き動かされるようにエンドラを抱き寄せた。鎧に押し当ててしまわないように、羽のような軽さでエンドラを包む。
 エンドラに触れた場所は遙か昔のように熱く焼ける。それでもかまわなかった。このまま堕ちてしまえばいい。堕ちてもまた生まれ変わる。女神がそれを認めた。
 女神が許した堕落。自分は女神を愛した愚かな男だ。あれほど自分を戒めたのに。
「いつかまた、会えたなら……」
 エンドラの声色はひどく優しい。
「はい」
 ヒカシューは万感の思いでそう答えた。
 エンドラはヒカシューの背に手を回そうと思ったがやめた。そんなことをしなくても、ヒカシューは分かっている。
 言葉は、気持ちを伝えるにはあまりにも足りない。
 ヒカシューが自分を抱く腕の方が、よほど多くのものを語る。
 エンドラはそっとヒカシューの胸を押し、身体を離した。
「ではゆけ、ヒカシュー。反乱軍どもを蹴散らすがいい」
「陛下の御心のままに」
 ばさりとヒカシューはマントを翻した。

 手の甲に水が落ちたのに気付く。
 雨が降り始めたのかとエンドラは空を仰いだが、曇っているものの雨粒は落ちてこない。
 水は自分から流れている。
「……涙か?」
 指で拭うと、それは確かに涙だった。
 暗黒道に堕ちてから二十年以上、いや婚姻のあの夜からついぞ流したことのなかった涙だ。
 もっと泣いてしまおうかと思った。だが涙はそれきり出なかった。
「これが最後の一粒らしい」
 エンドラは自嘲気味に言った。
 きっと涙を流すという行為は、あの言葉を得るための贄だったのだろう。今この一瞬だけ何者かが刈り取るのを止めた。それだけだ。
 その程度喜んで捧げてやる。
「来るがいい、反乱軍どもよ」
 エンドラは再びゼテギネアの大地を見やった。
 もう恐れるものはない。
 わたしは手に入れたのだから。

 「上都ザナドゥ」直前、一瞬だけエンドラが女に戻った瞬間です。
 エンドラが暗黒道に堕ちた理由、そして最高位騎士たるヒカシューが何故最後までエンドラの元に残ったのか、この二つの疑問から生まれた短編です。